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夕学レポート

2009年11月18日

難き道を行く  坂東三津五郎さん

坂東三津五郎さんには三つの顔がある。
江戸中期から続く大名跡 坂東三津五郎(大和屋)の十代目
江戸三座に数えられた芝居小屋守田座の座元 守田家の血筋を引く御曹司
日本舞踊の名門 坂東流の家元
歌舞伎界でありながら、成り立ちや性格の異なる三つの立場を、一身にして背負うことを義務づけられた宿命は、三津五郎さんの芸域を広げ、役者としての深みを醸し、人間として魅力に繋がったのではないだろうか。
江戸時代の歌舞伎人にあって、座元というのは、名字帯刀を許された一段格上の身分であった。「旦那、ご新造」という夫婦を指す尊称も、歌舞伎では座元の家柄だけに許された名称で、団十郎や菊五郎といった大名跡であっても役者筋は、「親方・女将さん」と呼ばれたとのこと。
三津五郎さんの曾祖母である七世三津五郎夫人は、座元の家筋であることを誇りに持ち、「江戸が冷凍パックされた」(三津五郎さん談)生活を守りながら、幼少の三津五郎さんに「江戸の粋」を伝え残したという。


日本舞踊の五大流派のひとつである坂東流は、名人と謳われた三世三津五郎が興した歌舞伎舞踊の名家で、全国に門人を持つ。三津五郎さんは家元として、その頂点に立ち、象徴であり経営者として、門人組織を束ねる立場にある。
歌舞伎界きっての踊りの名手と評される三津五郎さんの芸は、坂東流の伝統と土壌の上に花開いたものだ。
また、当然ながら日本舞踊は女性中心の世界なので、まだ53歳の三津五郎さんにとっては、年長者かつ先輩のお弟子さんも多いであろう。組織運営には気苦労も絶えないはずだ。
歌舞伎役者 坂東三津五郎の人生は、けっして平坦ではなかったという。父親である九世三津五郎は、菊五郎劇団の中堅幹部で、脇役を得意とする実直な役者だった。若き日の三津五郎さんも、なかなか役に恵まれなかった。
同年齢で、親友であり、ライバルであり、同士でもある中村勘三郎さんが、早くから陽の当たる道を歩き出していくのを目の当たりにして、忸怩たる思いもしたという。
「お客様に観てもらえないところでも、けっして手を抜くな」
ご母堂の教えを信じて、地味な役回りを懸命に演じることで、少しずつ周囲の評価を獲得し、苦労して今日の地位を築いた。
「放っておいても良い役が付く、いまの御曹司とは育ちが違う」
そんな下積み経験の強さが、三津五郎さんを支えている。
歌舞伎界の伝統を体現しなければならないという強烈な自負心。
荒事から和事、時代物まで多彩な役柄を演じ分け、歌舞伎にこだわらずに映画・テレビや小劇場の芝居に至るまで野心的に芸域を広げようとする挑戦心。
着物姿で控室に座っているだけで、堂々たる存在感を放ちながらも、フランクで包容力に満ちた人格。
いずれも、性格の異なる三つの顔を合わせもったことで培うことができた三津五郎さんの魅力ではないだろうか。
歌舞伎は家の芸であるとか、門外不出とか言われているけれど、実際は違う。いろいろな先輩に教えを請うてここまで来たし、自分も、今は一門を越えて教えている。
自分の身体に転写された歌舞伎伝統の芸や精神を、家筋にこだわらず、後世に伝えていくことこそが、歌舞伎という伝統文化を受け継ぐものの使命だと思う。
三津五郎さんは、そう話す。
歌舞伎評論家の渡辺保氏は、歌舞伎の規範を次のように語った。
「守りながら再創造する」
「守ることは再創造することに通じ、再創造することは守ることにつながる」
三津五郎さんは言う
「難き道を行く」
守りながら再創造することが、難き道であることは間違いない。

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