夕学レポート
2010年01月26日
何か始める前に、何かを終える 田中・ウルヴェ・京さん
人は誰も、人生のうちに何度か、住み慣れた場所・状況を旅立ち、新しい世界・状況に向かってスタートを切ることがある。
転職、リストラ、退職などネガティブな変化はもちろん、出産、昇進、抜擢のように他者から祝福されるプラスの変化もあるだろう。
そんな時、ふっと前が見えなくなることがある。自分がわからなくなるという言い方の方がいいかもしれない。
心理学者のウィリアム・ブリッジスは、そういった心理状態を次のように描写している。
「向こう岸に辿り着こうと川岸の船着場からボートをだし、しばらく進んでふと見ると、向こう岸がなくなっているのを発見するようなものだ。そして後ろを振り返ってみると、出発した船着き場が崩れて、流れに飲み込まれるのか見える...」
ウィリアム・ブリッジス『トランジッション 人生の転機』(倉光修・小林哲郎訳 創元社)
スタートは切ってみたものの、進むことも、戻ることもできない中途半端で不安定な状態、それを心理学用語で「トランジッション」と呼ぶ。
田中・ウルヴェ・京さんの話は、多くの人が経験する「トランジッション」の危機を乗り越えるための、メンタルマネジメントがテーマであった。
田中さんの話が、聴衆の心を打つのは、彼女自身が乗り越えてきた「トランジッション」の大きさを、誰もが理解できるからであろう。
シンクロ選手時代の田中京さんは、紛れもないトップアスリートであった。
10代から猛練習に耐え、大学四年21歳にして、ソウル五輪で銅メダルに輝いた。
卒業と同時に選手を引退し、代表チームのアシスタントコーチに就任し、指導者のエリートコースを歩みはじめたはずであった。
にもかかわらず、彼女を襲ったのは、進むことも、戻ることもできない中途半端で不安定な状態「トランジッション」であった。 死を考えて、駅のホームに立ちつくす経験もした。
そんな彼女が、「トランジッション」を乗り越えることが出来たのが、カウンセリング心理学であった。
留学先の恩師の導きもあり、メンタルトレーニングの手法で、自己を見つめ直した田中さんが、改めて気づいたのは、自分の美しくない内面であったという。
小谷実可子さんに対するコンプレックス。
「人から認めてもらいたい」「カッコイイと言われたい」という欲求
努力家であったがゆえに、弱者や敗者を見下してしまう気持ち
それらの存在を認め、気づくこと(self awareness)で、真のスタートを切ることができたという。
メンタルスキルというのは、「自分というマシンを知ること」だと田中さんは言う。
そして「自分というマシンの操作には、他者のマニュアルは使えない」ことに気づくことだと。
ブリッジスは、「トランジッション」を3つの段階に分けている。
「何かを終える」段階
「何かが始まる」段階
その間にある「空白の中間」段階
未開社会の風習のひとつとして、大人になるための儀式(イニシエーション)が行われるのは、「何かを終える」という区切りを肉体と精神に刻み込む意味があったのではないかという。
かつては日本でも、武士は元服に際しては前髪を落としたし、女性は結婚に際してお歯黒を入れることがあった。ある時代・生活、そこで許されていた常識や習慣がもう通用しないのだということを、こころと身体にしっかりと刻み込む必要があったというわけだ。
田中さんが、留学先で受けた「ライフライン」「セルフノート」といったメンタルスキルを使ったトレーニングは、田中さんにとって「シンクロ銅メダリスト」を終えるための儀式(イニシエーション)だったのではないか。
ブリッジスは、「何かを終える」段階の後には、「ニュートラル」と彼が呼ぶ、ある空白期間を経る必要があるという。「何かを終える」という区切りをつけたことで生じる一時的な喪失状態に耐える必要があるのだ。
蝶がサナギの中で静かに変態していくように、目には見えない精神世界の中で、気持ちの変化を促すために時間が必要だという。
空白期間を経て、ようやく「何かを始める」段階がやってくる。それは明確なスタートラインや合図があるものではなく、本人も気づかぬうちに静かに始まっているのである。
田中さんには、引退からメンタルスキルコンサルタントとして独立するまでの10年近い「ニュートラル」時期があった。10年の時間は長かったのかもしれないが、現在の田中さんの充実した活躍振りを見ると、きっと必要な時間だったのかもしれない。
「自分というマシン」を使いこなす、自分だけの「マニュアル」を作るために....。
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