夕学レポート
2011年03月24日
「祈ること」と「働くこと」 その1
地震から2週間近くが経過した。
地震・津波の直接的な被害を受けられた被災者の皆さま、原発事故で甚大な影響を受けていらっしゃる方々に心からお見舞い申し上げるとともに、いま私達(関東地方に住む人々)が直面している心理状態について、キリスト教と関連づけながら考えてみたい。
2月8日のブログ(阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その2)で、私は次のように書いた。
「人間は、神に逆らい、善悪を知ること=知恵を得ることで人間になりました。そして、その代償として、けっして逃れられない苦難を繰り返し経験することを宿命づけられたのです。
人間が遭遇するあらゆる苦難は、人間が神に逆らった罰であり、神の意志に他ならない。
天災であれ、飢餓であれ、戦争であれ、疫病であれ、不景気であれ、人間の苦難・逆境・のすべては、かつて人間が犯した「原罪」の代償であり、神の意志である。
彼ら(西欧人)は、困難に遭遇する度にそう思うのでしょう。
いま思うと、なんと高慢な文章であったかと猛省せざるをえない。
未曾有の大惨事に遭遇する可能性は、世界のどこにいようが同じである。論理的に言えば人類のすべてに天災に見舞われる可能性はあった。
にもかかわらず、自分は安全圏において、慌てる下界(他者)を見下ろしているかのような書き方をしている。
自らの不明を恥じるばかりである。
さて、いま私達が直面しているものを、ひと言で言い表すとしたら「明日への不安」ではないだろうか。
つい先日まで、「きょうと同じ明日が来る」 誰もがそう思っていた。
それが3・11を期して大きく変わってしまった
「きょうと同じ明日が来る」という確信が、これほどまでに揺らいだことはなかった。
何がどうなっているのか。いつまでも不便が続くのか、はたして日本は大丈夫なのか。
私達は、答えなき不安、終わりなき不安に包まれている。濃い霧の中を浮き船で漂っているかのようである。
認知心理学の知見によれば、人間は、未知のことを知りたい、制御できない将来をコントロールしたいという強い欲求を持っている。
未来を知りたい、明日がどうなるかを知りたい。一ヶ月後、一年後を出来るだけ正確に予測したい。その欲求は、人類の「知性」を発展させ、社会を向上させる動機になってきた。
しかし、未曾有の大惨事を前にして、残念ながら私達が作り上げてきた「知性」は、はなはだ心許ないものでしかないことも分かった。
「明日はどうなるかを知りたい」という本能的な欲求・動機と「明日がどうなるかは見通せない」という現実の「知性」の不協和の中で、得体の知れない不安が晴れる兆しはない。
不協和と不安の増大を受けて、人々は、政府や東電、マスコミ、一部の専門家を「知性の代弁者」に仮置して糾弾することで、不協和を緩和しようとする。
あらゆる情報を収集し、その真否を評価し、影響度合いや関連性を計算して判断をすれば、もっと明日のことがわかるはずだと責め立てる。
あるいは、「知性の代弁者」側が、自分達にとって都合の悪い情報を隠しているに違いないと疑心を抱く。
誰かが答えを知っている。何かのやり方で答えが導き出せる。それが出来ないのは、出来ない人間の能力や適性に問題があると言わんばかりである。
はたしてそうだろうか。
いくつかの面で頷ける部分が多いことは間違いない。しかし私は、誰がやったとしても大きな混乱は避けられなかったのではないかとも思う。
これほど進んだ現代の「知性」をもってしても、答えのでない問題は、確かに存することを、改めて思い知らされた心境でいる。
全知全能の神 原罪を背負い続ける人間 贖罪としての宗教etc。
キリスト教の世界観は、あらゆる災難・困難を起因とする欲求と現実の不協和を、真正面から受け止めたうえで、心理的に合理化してしまう。
その圧倒的な説明力と教義の完成度に、いま改めて畏敬の念を感じざるをえない。
そしてこの教義を基軸にして、数千年を耐え抜く普遍の神学体系を築き上げてきた無数の神学者の努力に、ただ驚嘆するばかりである。
(明日につづく)
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