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夕学レポート

2011年03月25日

「祈ること」と「働くこと」 その2

不協和・不安を合理化する心理装置としての「神」を持たない私達日本人は、「明日への不安」にどう向き合っているのだろうか。
dst11031408110028-p2.jpg3月14日月曜日の早朝、計画停電情報の迷走から、精緻なパズルの組み合わせで成立している首都圏の電車ダイヤは大混乱に陥った。にもかかわらず、多くの人々は「仕事」のために会社を目指した。
「こんな時に家族を残して仕事に向かおうとするなんてクレイジーだ」と外国人は言ったのだろうが、多くの人々には、戸惑いこそあれ、迷いはなかったのではないか。
他ならぬ私もその中の一人であった。
駅の構内を溢れ出す人混みの中に身を置き、顔を真っ赤にしてがなりたてる駅員の誘導に従いながら、ただじっと電車を待っていた。
海外のメディアは、その様子を見て、日本人の冷静な行動や精神の強靱さに驚嘆の目を向ける。
しかし、その見立ては必ずしも正しいとは思えない。
人々はけっして冷静ではなかった。冷静であろうとしていただけだ。冷静でいよう(見せよう)と自分の感情と行動を必死になって制御していたのである。
それは、自己の内なるものとの「精神の戦い」ではなかったか。
「明日への不安」にくじけそうになる「こころとの戦い」ではなかったか。
多くの人々にとって、その日の「仕事」は、「目には見えない戦い」ではなかったか。
黙々と働くこと、目の前に課題に集中すること、それが表に見える戦いの姿ではなかったか。


仕事や職場を「戦場」というメタファーで語る例は昔からあったが、多くの場合、それは同僚との出世競争であり、競合他社との顧客獲得競争であり、新製品開発競争であった。
それらはいずれも「目に見える戦い」であって、この拙文で言及する「目には見えない戦い」とは性格が異なるものだ。
「目に見える戦い」には、必ず勝敗がある、勝者にせよ、敗者にせよ、戦いが終わる日が来る。
「目には見えない戦い」には、勝ち負けはない。勝者も敗者もいない。戦いが終わることもない。ただひたすら孤独で、長い、心理戦である。
海外メディアの賞賛があてはまるとしたら、それは、多くの日本人が、この戦いから逃げてはいないことであろう。
「明日への不安」に相対峙しながら、逃げることも叫ぶこともなく、静かに、苦しみながら、「目には見えない戦い」と向き合っている。
「目には見えない戦い」は、金銭報酬を伴う仕事だけではない。
子供のための牛乳を求めて開店前のスーパーに列を作る主婦も、節約のために暖房を我慢して寒さに耐えている老夫婦も、目の前に課題に集中することで、「明日への不安」と戦っている。
自らが被災者でありながら、他の避難者の世話や自律的な組織づくりにために奔走する人達。自宅が全壊していながら、「この街の皆が待っている」と、必死で店を開けているスーパーの店長。「いま無理をしないで、いつ無理をするのだ」と、家族を説き伏せて原発事故の現場に駆けつける東電社員etc。
被災の現場で、命懸けで奔走するこれらの人々が直面している苦難と、彼らに比べてはるかに安全地帯に身を置いている私達の直面している苦労を、同列に論じることは断じて出来ない。
しかし、私は思う。
「明日への不安」に対峙して、そこから逃げずに、それを正面から受け止めるために、目の前の仕事に黙々と取り組むという意味において、彼らの数十分の一でもいいから、「精神の気高さ」を共有したいと...
「目には見えない戦い」は、宗教を持つ人々にとっての「祈り」と通ずるものはないだろうか。
全知全能の神を信じない私達は、「明日への不安」を合理化する精神装置を持っていない。
贖罪としての「祈り」を知らない私達には、ひざまずき、すべてを委ねる術(すべ)を知らない。
けれども、「祈り」に似た「精神の気高さ」をもって、働くことは出来る。
目の前の仕事に黙々と取り組むことで、「明日への不安」に立ち向かうことは出来る。
私達は、黙々と働くことを通して、けっして答えの出ない、長くて、孤独な心理戦を戦い続けている。

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