KEIO MCC

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夕学レポート

2013年11月27日

私たちが知りうる宇宙には限界がある 池内了先生

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楽屋で池内先生にご挨拶をした。まっすぐでお優しい視線を返してくださって、吸い込まれる気持ちがした。
科学と社会の接点を常にきびしく見つめ、物事を追求されていらっしゃる。科学の終焉というタイトルもご著書も、先生の選ばれる言葉はきびしいものも多い。だから先生も、きびしい方なのではないかと、私は内心ちょっとどきどきしていた。しかし池内先生は、科学初心者である私の稚拙な疑問にも、好奇心から思わずでた反応にも、まっすぐな視線と丁寧な言葉を、常に返してくださった。そんなところもすべてが池内先生のメッセージであったような気がした。視線も言葉もとてもお優しい先生だった。
そして講演。池内先生のご研究の専門は宇宙であるが、近年は科学と社会の接点にある問題についても深く考え、哲学的な問いや社会論についても発言され、そして啓蒙的な活動もされている。池内先生はこうはっきりとおっしゃる。
私たちが知りうる宇宙には、限界がある。
それは「光の速さ」X「宇宙が生まれてからの時間」なのであるが、


池内先生が宇宙のお話をされたのは科学の限界を説明されるためである。もっとも大きな宇宙にだってそうなのであるから科学だってそうである。こんな単純にまとめては失礼なのであるが、私は池内先生のメッセージはここにあると思う。
さて、科学の法則には次元がある。
その法則が法則としてなりたちうる対象に応じてである。
0次理論:無限の対象に対しての法則
1次理論:具体的な対象に対しての法則
2次理論:ある特殊な対象に対しての法則
3次理論:ある特定の物理環境や相互作用においてあてはまる法則
さらに4次、5次、と細部の法則となっていく。
0次理論とはたとえばニュートン力学、量子力学、相対論、1次理論とはたとえば素粒子論、化学である。ノーベル賞級の発見というのは、0次、1次の理論である。
20世紀末からいわれる「科学の終焉」とは、0次1次理論は発見し尽くされてきたということだ。そうすると自ずと研究対象は3次、4次、5次となっていく。適応範囲は狭く特定化され、作用は微細となる。問題は狭さや微細さばかりを追求する科学になってしまっていくことにある。
たとえば、エネルギーを上げようとすると、使うエネルギーも増える。ロスも増える。
たとえば、サイズが細かく小さくなれば、それだけ運動量が大きくなるので、ぼやけてしまい、実態は見えにくくなる。
見失ってはいないか。忘れてはいないか。判断はよいのか。ということだ。
これは科学に限らない。目標があり、解決したい課題があり、対象があると、それに向かって人間の動機は向かう。自然なことであり原動力である。しかし同時に見えなくもなっていく。枠の内ばかり見ているとそれ以外に目や意識はいかなくなり、慣れて枠の存在さえ忘れてしまう。その枠のなかでの進捗や達成感や満足を見出す。人間の常である。だから忘れてはならないと。
限界や終焉といった言葉を繰り返しながらも、しかし先生のお話には希望が感じられた。限界をふまえながらもそのなかに可能性を探究し続ける、科学者としての姿勢の原点を拝見したように思う。そして限界を認めるからこそ、新たな提案ができる、ということでもあるだろう。はっきりときびしくも述べられる姿勢、言葉、まっすぐでお優しい視線、すべてが池内先生のメッセージであったと思う。
(湯川真理)

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