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夕学レポート

2014年11月04日

鴻上尚史氏に聴く、「壁」を押し広げる方法

鴻上尚史 劇作家としての鴻上尚史氏の代表作に、「天使は瞳を閉じて」という戯曲がある。
 舞台は、白装束の登場人物たちが立っている場面から始まる。胸にそれぞれ「教会」「劇場」「戦場」「会社」「監獄」「国家」「家庭」「病院」「学校」と書かれた彼らは、各々の管理と抑圧の場からともに逃げ出そうとするが、「柔らかくて見えない壁」に阻まれて果たせない。
 元の場所には戻れない。でも壁の向こうには行けない。
 この状況で、境界に佇む彼らが選んだのは、柔らかな壁をどこまでも押し広げながらそこに新しい街を創る、という第三の道だった。
 天使の視点から語られるその街の創造と終焉の物語に、鴻上氏は、人間組織に不可分に内在する絶望と希望を同時に描き出した。


 さて、講演は「表現とコミュニケイションのレッスン」と題して行われた。
 「コミュニケイションのレベルは『聞く』『話す』『交渉する』の3つ」という簡明な説明に続けて、鴻上氏は、歴史学者阿部謹也氏の定義を援用しながら、「世間」と「社会」という2つの位相について話し始めた。
 端的に言えば「世間」とは、現在と未来に利害関係を共有する人間関係。それに対置される「社会」は利害関係を共有しない人間関係である。
 家庭、学校、会社といった組織は、ここでは「世間」に分類される。そして永らくこの国の風土を形作ってきたのは、農耕水利のための「村落共同体」を起源とする、大小様々な「世間」だった。そこに近代国家の建設を目指す明治政府が「社会」という概念を導入し、爾来この国は「社会」という理想/建前と「世間」という現実/本音の二重構造の下にある。
 「世間」は、その内部にいる限り、自己を強力に守ってくれる存在である。しかしまた「世間」に属するということは、常に強い同調圧力にさらされ、濃密で、抑圧的な関係に身を置くことでもある。その息苦しさは、日本人なら誰もが実感として理解できるものだろう。
 その「世間」はいま、時代の変化の中で、本格的に破壊されつつある。しかしそれは完全に潰えたわけではなく、壊れた状態で流動化し社会に入り込んで来た。流動化した世間、それが「KY(空気が読めない)」というときの「空気」である、と鴻上氏は喝破した。
 折角自壊しつつある「世間」を、なおも「空気」として召喚する日本人。
 そこにあるのは殺伐とした「社会」への不安であり、安心できる「世間」への郷愁であろう。 
 今更、濃密で息苦しい「世間」には戻れない。
 といって、乾き切った「社会」に単純に向かうこともできない。
 ならば第三の道を探すしかない。
 
 ところで「世間」にしろ「空気」にしろ、それらは畢竟、個々の人間の自意識の集積に他ならない。自意識に振り回される限り、人は、自らの人生を自ら抑圧することから逃れられない。
 ではどうすればよいのか。それには、鴻上氏のもうひとつの顔、演出家としての知見が役に立つかもしれない。
 鴻上氏も依拠する、著名な演技訓練方法であるスタニスラフスキー・システムでは、俳優が自意識をコントロールして自然な感情と身体の動きを実現するための方法として、次の3つがある。

  • 3種類の「集中の輪」を使い分けて、舞台上のものに意識を向ける。
  • 台本から、役の「与えられた状況」をできる限り詳しく想像してみる。
  • 「目的と障害」を正しく葛藤させ、そこから導かれる行動を実践する。

 専門的な説明は省くが、これらはいずれも自意識を直接的に小さくしようとするものではない。そんなことをすれば自意識はむしろ肥大していく。逆に、自意識以外のものに強く意識を向けさせて余裕がない状態をつくることで、自意識に向かう心的エネルギーを減少させようというのが、これらの方法のねらいである。
 同じ方法は、一般人が「世間」ないし「空気」を過剰に意識しないためにも、有効であるかもしれない。
 まずは、中途半端に壊れた「世間」と、それが流動化した「空気」を良く観察し、その特徴を正確に把握すること。その上で、「世間」とコミュニケイションを取る(=聞く・話す・交渉する)ための方法を考え、個人としての具体的な行動の選択肢を持つこと(その場合、鴻上氏が講演で提示した「世間の5つの特徴と対応方法」が有効だろう)。
 そのようにして、受け身ではなく能動的に「世間」のポジティブな要素を選択し、それを「社会」での行動に移す能力を涵養できたとき、私たちはそこに新たな希望の街を創ることができるかも知れない。
 萌芽は既にある。
 311の後しばらく、時折起こる余震のたびに、見知らぬ人同士が「揺れましたね」「ええ、強かったですね」と声を掛けあう場面が見られたという。本来ならそのような声掛けのない「社会」で自然発生した、「世間」的な会話。それを鴻上氏は、世間話ならぬ「社会話」と名付けた。そして、そのような「社会話」が少しずつ、少しずつ広がっていくなら、この国も少しは生きやすくなるんじゃないかな。鴻上氏はそんな言葉で、講演の幕を閉じた。
 ところで、「天使は瞳を閉じて」の冒頭にはもう一人、登場人物がいた。
 ただひとり、掠れた字で、彼女の胸に書かれていたのは「人生」。
 思えば、人間組織の最小単位はひとりひとりの人間である。
 そして誰もがこの組織からだけは死ぬまで自由になれない。
 意識の中心は、このちっぽけな肉体の中にどこまでも閉じ込められている。
 しかし意識の周縁は、あの柔らかい壁のように、どこまでも広がりうる。
 壁を押そう。
 押した分だけ、あなたの意識は、ほかの誰かの意識と重なり合えるのだから。

白澤健志
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