夕学レポート
2016年06月20日
ラグビー日本代表チームを変えたメンタルコーチ 荒木香織さん
自分の心を征すれば全てを征することができると、古より言い伝えられている。自己啓発本の専売特許ではない。しかしいざ実行しようとすると上手くいかない。なぜか。己の怠け心やいざ本番の緊張は無論承知の上だが、それでもあと何かが足りずに目標達成ができない。そうした「心の問題」に向かい合いたく今回の講演を心待ちにしていた。恐らく聴衆の中にもそうした人は(同時に話題のラグビー日本代表の話を聞きたいと思う人も)多かったと思う。
講師の荒木香織さんは小柄で、これほどスリムな女性がメンタルコーチとして、80人近くいたというラグビー日本代表選手の心を支えてきたというのが何やら不思議な気がした。しかもヘッド・コーチのエディ・ジョーンズ氏から与えられた使命はあまりにも大きい。「(日本代表チームの)マインドセットを変えて欲しい。」ひとりですら大変なのに対象はチーム、それも全ての核となるマインド、である。
ここで日本語では同じ「心」だが、「マインド」と「メンタル」では何が違うのか整理をしておく。「マインド」は「1.知力、知性、考える力、思考力、頭脳 2.<意識・思考・意思・感情・判断の座としての>心、精神」、「メンタル」は「1.精神の、心的な 2.知力の、知的な;知能の」(出典:『ジーニアス英和辞典』大修館書店)と、マインドは判断の根に関わるものである。それを変えるのは責任重大だ。ではメンタルトレーニングの果たす役割とは何か。荒木さんは敢えて当初タイトルであった「メンタルコーチ」を「メンタルトレーニング」に変えて講演を始めた。そこには「トレーニングで変えることができる」という思いがあるからだろう。講演で話された内容は大変多岐にわたるものだったので、ここではメンタルトレーニングが科学的なものであること、主体性を育むために取り組んできた「すみません禁止」と「目標設定・達成」についてのみ述べることにする。
メンタルトレーニングはスポーツ心理学が基盤となっている、学問的な骨組みのあるものだと講演中、何度か繰り返した。有名な「五郎丸ポーズ」は「毎朝、鏡を見てにっこり笑うと自分を好きになる」といった自己暗示やおまじない的なものではない。実に2年もの歳月をかけて「作り上げていったもの」と知って驚いた。何らかの意味やプロセスはあるものと思っていたが、キック前の助走のリズム調整か、指を立てるポーズに至っては距離でも測っているのかと思っていた。一連のプロセスは「プレ・パフォーマンス・ルーティーン」と言い、パフォーマンス前(プレ)の準備(ルーティーン)によりパフォーマンスを成功へと導くためのものだ。その目的は4つある。外的(ゴールポストまでの距離の見え方などの視覚、歓声など聴覚)、内的(「入らなかったらどうしよう」「上手くできるだろうか」などのネガティブな思い)に妨げとなるものを取り除くこと。第2にキックへの身体の準備。第3にストレス軽減。第4に重心の移動などのプレイの修正のしやすさ。一度失敗してもプレ・パフォーマンス・ルーティーンの各所で動作の調整ができるため、2度目の失敗がしにくくなると言う。実際、五郎丸選手は2本続けてのキックの失敗がほとんどなくなったそうだ。
確かに以上のルーティーンの明確さは自己暗示ではないだろう。もう少し説明が欲しいと思っていると荒木さんはメンタルコーチの仕事を、自分で課題に気づいていくためのサポートと定義してくれた。人間を知り、より主体的な存在になるための手助けをする、複合領域の仕事だと。そして主体的に自己の問題と対峙した例として、怒られた時の返事に「すみません」「精一杯がんばります」の言葉の使用を禁じたことを紹介した。
コーチに怒られた時、とりあえず「すみません」と言うと、「エディさん」は更に怒る。なぜか。そこには原因を考える姿勢も、「では今後はどう取り組むのか」という主体性も全くないからだ。自らの頭で考えず、コーチに言われたことをこなしているだけの受け身のプレイヤーになってしまう。とは言うものの、日本で育った人間ならコーチや教師に自分の考えを伝えて一緒にトレーニング内容を作り上げていくことは難しいであろうことは、日本代表経験がなくても容易に想像がつく。かつて水泳日本代表のある選手が、コーチに自分の希望を伝えると「反発している」と捉えられ、「できるんだな?絶対できるんだな?できるものならやってみろ!」といった感情的な衝突を生んでしまうと嘆いていたことを思い出した。荒木さんはそうした社会的背景も踏まえて逆に今度は「エディさん」へ、日本選手にそれが難しい事であるとの説明と理解を求めることもしているとのことで、異文化コミュニケーションへの理解と説明能力が必要とされる大変な仕事であることが窺える。
また、メンタルトレーニングに効果的なものとして、目標設定とその達成経験があることを挙げた。不安材料をなくすためコントロールできることは何かを探るのだ。その設定を「もう少しでクリアできる目標」にするのがエディ流だ。その過程で達成するための方法を色々と考える力が身に付く。さらに目標の記録をすることで設定と達成を「見える化」していく。達成すれば誰だろうと嬉しいものだ。その達成の積み重ねが次へのモチベーションへも繋がる。荒木さんは大き過ぎない「もう少しでクリアできる」目標の設定が大事で、あまりに大き過ぎる目標はなかなか達成できないので良くないとしていた。達成可能な目標設定をし、達成して「嬉しい感情の記憶」を経験しないと、一日一日は、終わりのない辛いだけのものになってしまう。
講演を通して荒木さんが熱い人だというのが伝わってくる。緊張だけでなく、想いが溢れて言葉やスライドが追い付かない、そんな印象も受けた。こうした荒木さんの熱いトレーニングや取り組みを通して、チームで1年ごとに目標を考えていった。2012~2013年はそもそも「勝てる」と思っていなかったチームに「勝ちの文化をつくる」、2014年は「憧れの存在になる・歴史を変える」とさらに前進、そして2015年には正にこれまで取り組んできたそのものの「主体性」。この主体性こそが課題を自分のものとして受け止め、乗り越えて行くための道となり力となるのだろう。そして同年、日本代表チームはワールドカップ、イングランド大会で3勝を上げ、かつては思いもしなかった世界ランキング10位となる。
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