夕学レポート
2006年01月26日
品格ある教養人たれ 村上陽一郎さん 「現代における教養とは」
「かつて、働くとことは“神の呪い”であった」 そんな刺激的なメッセージではじまる本があります。(『仕事の裏切り』ジョアン・キウーラ)
古代ギリシャにおいて、仕事は奴隷の役割でした。農地を耕すことも、工具を作ることも、火事、育児、全ての労働は神の呪いを受けた奴隷に課せられた宿命だと考えられていました。一方で市民(貴族)は詩を詠み、音楽を奏で、哲学を論じることに生き甲斐と精力を傾けていました。そのために必要な素養がLiberal Artsつまり「奴隷の責務である仕事から解放されるための技」だったわけです。逆に言えば、“神と繋がる”ための素養として必要なのが「教養」だったのです。
村上先生の講演は、そんな背景を受けて、12世紀に生まれた「大学」という社会システムの役割とそこで求められた「教養」についての話から始まりました。
村上先生によれば、12世紀の中世ヨーロッパでは、キリスト教の社会的・文化的な影響が色濃く社会を覆っていました。その時代は、神の言葉=聖書を読み解くための能力(論理、文法、修辞)や、神の摂理としての自然現象を理解するための知識(天文、算術、幾何、音楽)を「教養」と呼んだそうです。それを学ぶところが大学であり、その上に神学や法学を学ぶ専門機関があったとのこと。米国のアイビーリーグが現在もこの原理を受け継いでいるものだそうです。やがて19世紀の近代社会では、宗教の束縛から解き放たれて、科学技術の進歩に対応する「近代人としての主体性の確立」に繋がる知識が「教養」と呼ばれるようになりました。これに伴い、大学の意味づけが「教養」を学ぶところから「教養」を学び終えた人が専門知識を学ぶ場へと変容しました。そして「教養」を学ぶ場としてギムナジウムやリセと呼ばれる中等教育機関が新たに生まれました。日本の旧帝大と旧制高校との関係がこれに近いそうです。
ところが、戦後日本では、「教養」を学ぶ場の意味づけを明確にしないまま、アイビーリーグ式の大学教育を採用したため、高校は大学予備校化し、大学教養部課程は沈滞し、結果として教養教育の荒廃がはじまった。これが前半の趣旨でした。
講演の後半では、現代社会における教養とは何かに話は展開されていきました。村上先生は。現代社会に生きる人間の素養として、次の3つをあげています。
1科学技術リテラシー、
2.社会リテラシー(倫理や社会学)
3.品格
1は、原子力やクローン技術、臓器移植の是非を主権者とし判断するために必要なものです。2は、専門知識や技術を誤った目的に使わないために必須の素養です。そしてなによりも必要なのが3の品格であるというのが村上先生の考えです。
村上先生は「品格」という言葉を
・多面的に考えること
・自分の立場を相対化すること
・自分の意見を伝えられること
・絶対否定、絶対肯定をしないこと
・カウンターバランスをとること
・規矩(きく)=自分の基準をもつこと
などを総称する概念として使っています。
私なりの理解では、「教養」とは、その時代・社会との相互作用の中で浮かび上がってくる「人間はかくあれ」という基軸のようなものではないでしょうか。時代によって、進歩によって変わってくるのかもしれません。
「グローバリズムの本質は多極化・多様化である」ということは先週の姜尚中先生の夕学でも学んだことですが、多極化・多様化の時代だからこそ、村上先生のいう「品格」が求められるのでしょう。自分の意見を明確に持ちつつも、それを相対化し、異なる価値観の中で統合できること、それこそが現代の教養だということことでしょうか。
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