ピックアップレポート
2016年06月14日
近代百貨店の誕生と慶應義塾 -ミュージアムクロシング
東京都墨田区。JR総武線の両国駅西口を出て北側の国技館にのぞむと、その右奥にそびえたつ江戸東京博物館が自ずと目に入る。この館の常設展示の一室で開催された企画展「近代百貨店の誕生 三越呉服店」を見学してきた。(終了。会期は2016年3月19日(土)~5月15日(日))会場は明治維新後から明治末期までを4つの時代に分けて展示が構成されている。「第1章 追々繁盛の見込あるものを」は、維新後に政府主導で近代化促進のために計5回開催された内国勧業博覧会の紹介から始まる。
日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿(現在の東京都文京区湯島)で開催されたのは1872年(明治5)のことである。前年に設置された文部省博物局による開催で、「文部省博物館」と呼ばれた。
展示品は、翌1873年(明治6)開催のウィーン万国博覧会への出品予定品が中心だった。基本的には、名宝や珍品を集めて観覧させることが目的の「見世物」であり“展示”が主な目的だった。展覧会は入場制限をせざるをえないほどの人気を呼び、会期も延長された。最終的な総入場者数は15万人と推定されている。長らく近世に生きてきた普通の人々にとっては見たことも聞いたこともない“コト”=「博覧会」が突如近代の社会の幕開けに出現したことになる。この仕組みは、その後管轄部署や名称の変遷を経て、今の東京国立博物館となる。
一方、内国勧業博覧会(内国博)は、「勧業」を冠していることからも明らかなように「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って初代内務卿大久保利通の提案により内務省の主導で第1回が行われた。
1877年(明治10)に上野公園に設けられた約10万平方メートルの会場の様子を描いた錦絵を見ると、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館等が見て取れる。出品物の収集も各府県の出品取扱人による勧誘を行わざるを得なかった。実際の出品者は、国内物産の開発促進が目的といわれても何を出品すればいいのか見当もつかず、どんな効果が得られるのかも半信半疑だったろう。出品者は、他の出品作を参考にするために上京することも要請された。出品の運搬費も自己負担である。それぞれにリスクと機会を両天秤にかけたに違いない。
第1回の入場者数は西南戦争等の影響もあって予想を下回り、財政的には不成功だったようだが、勧業政策の手段として博覧会の可能性への理解を広めることには成功した。内国博は、その後回を重ね入場者が百万人を超す規模へと発展していった。
“展示”に付随する“販売”の経験は、内国博終了後、小売商がテナントとして入居する一種のショッピングモールで陳列販売を行う勧工場(かんこうば)という業態へとつながる。銀座の博品館の前身である博品館勧工場は、1899年(明治32)に開業している。陳列された様々な種類の商品を正札を見て買うことのできる勧工場の販売方式はこの当時としては画期的であり人気を得た。この小売業のイノベーションが次の近代百貨店へとつながることになる。
第2章 米国の流儀を採用しなくてはならぬ
第2章に進むと、一枚の写真が自ずと目に飛び込んできた。福澤諭吉の洋装の写真である。驚きとともに見学する気分のモードが切り変わる。隣には、福澤の手により創刊された戦前の五大新聞の一つ『時事新報』の第1号も並ぶ。なぜここで福澤諭吉なのだろうか。
1673年に伊勢商人・三井家の三井高利が江戸本町一丁目(現在の日本銀行近辺)に呉服店「越後屋」を開業した。現銀掛値無し(げんきんかけねなし)による薄利多売など、越後屋は、当時としては斬新な商法を次々と打ち出すイノベーターだった。現在では当たり前の正札販売は世界で初めて実現されたともいわれる。呉服購入のハードルを一般市民が手に届くように下げたことは社会的なイノベーションだったともいえるだろう。ちなみに、現在では、その地の日本銀行の本店前の貨幣博物館では、日本のお金の歴史が展示されている。「越後屋」の時代から近代百貨店誕生にいたるまでの経済社会の信用の基盤となった貨幣の歴史も確認しておきたい。
さてその後、対外貿易がはじまった幕末には物価が高騰して呉服などの贅沢品の買い控えがおき経営は悪化。改組されて三井呉服店となった後の1895年、経営の立て直しと近代化のために高橋義雄が三井銀行から三井呉服店の理事に就任し経営改革に着手する。高橋は水戸藩士の四男として生まれたが、明治維新による生活困窮で呉服店に丁稚奉公に出される。その後、苦学を重ねる中で、福澤諭吉の記者養成のもとめに応じて上京。1881年(明治14)に慶應義塾に入学し、時事新報へと進んで社を代表する社説記者となるが、商業への思いが高まり退社。1887(明治20)年、勉強のために渡米する。米国では、デパート経営に関心を持ち、帰国後は三井銀行に入社した。そして三井呉服店の経営に参画する。
高橋は、新しい小売業の立上げを先導した。旧来の呉服店を近代的な小売業態へ革新するために、対面販売の座売りから陳列販売方式へと大幅な切り替えを行う。商品を陳列販売する「縦覧御勝手」は勧工場でも試みられた手法であり、博覧会で自由に商品を見て歩くことに慣れた購買者は、三越の新方式を次第に受け入れていった。組織的には、慶應義塾出身者など学卒者を採用するなど新教育を受けた人材を採用。会計記録の方式も従来の大福帳から洋式簿記に変更された。そして、アメリカの小売方法を参考に、非日常の祝祭空間を演出するため百貨店に博覧会や展覧会を導入する。販売機能だけでなく欧米で盛んであった博覧会や展覧会のようなイベントを取り入れ、百貨店の場のイノベーションを図ったのである。流行を創り出すために、起用した新進画家にポスターを描かせたりもしている。
第3章 営利だけで経営すべきでない
第3章に進むと、副題には「~日比翁助の理念社会教育施設としての三越博覧会と展覧会の展開~」とある。新章のタイトルの下に並ぶのは、今度は『学問ノススメ』第2編から第8編までである。
日比翁助は、久留米藩士の次男。軍人になることを親族に反対された日比は九州久留米で福澤諭吉の声望に触れ、上京を決意。慶應義塾に学び、1897年(明治 30)年に三井銀行和歌山支店支配人、翌年三井呉服店支配人に抜擢され、高橋義雄と共に改革に取り組むことになる。1904年(明治37)、合名会社三井呉服店は株式会社三越呉服店に改組され、欧米流のデパートを目指す「デパートメントストア宣言」を発表。三越呉服店は日本初のデパートとして営業を開始した。
専務取締役に就任した日比は、「学俗協同」による文化・啓蒙機関としてのデパートを志向する(「俗」はビジネスの意味)。学識経験者にビジネスに関する意見を聴き、三越を通して社会に広めて行くために、新渡戸稲造、黒田清輝、森鴎外などの著名な文化人による流行研究会を組織した。また、美術展/西洋音楽の演奏会/児童(こども)博覧会の開催や、洋風生活様式の紹介などによってビジネスの成果を社会にフィードバックした。 特に、1909年(明治42)の児童博覧会は規模と集客からみても記録的な博覧会となった。
第4章 三越を訪わずして流行を語るなかれ
この時代、高橋義雄と日比翁助は、デパート経営を通じて一般国民の文化の近代化を目指した。続く第4章で描かれるように、明治末期から大正初期には三越が都市文化の主要な担い手として認知されることになる。“今日は帝劇、明日は三越”のキャッチ・コピーという宣伝文句は流行語になったのは1913年(大正2)。時代の空気は、ポスター、新聞広告、絵葉書などで振り返ることができる。近代百貨店の歴史は、福澤諭吉の薫陶を受けた二人の慶應義塾出身者が先導したのである。
それから百年。2014年の秋、私がキュレーターをつとめる慶應義塾・三田キャンパスの福沢諭吉記念文明塾の第12期に、三越伊勢丹ホールディングスの大西 洋代表取締役社長を講師としてお招きした。ストラテジック・リーダーシップのセッションで「これからの時代に必要なリーダーとは」というテーマでご講演いただいた後、塾生との対話と議論が行われた。三越と伊勢丹が経営統合を行ったのが2008年。新たな段階の経営、次の時代に向けたイノベーションを先導する大西氏は、慶應義塾商学部の卒業生である。
http://www.fbj.keio.ac.jp/program/schedule_12.html
さて、江戸東京博物館の企画展を訪れたのにはわけがある。大西さんをお招きしてのセッションの司会やインタビューを行った翌年、たまたままったく別の縁で、私が個人の活動として参加している自分史の活用・普及の団体が日本橋三越本店で1週間普及イベントを開催することになった。準備から実施まで数か月の間、販売の現場の皆さんと交流する機会になった。普段は客としての視点しか持たなかった百貨店というビジネスを運営側から垣間見たのである。
http://www.jibun-shi-festival.net/2015nihombashi.html
俄然、百貨店の、とりわけ三越百貨店の歴史に関心をもって江戸東京博物館に出かけたというわけである。しかも、この自分史イベントを2013年に初めて開催したときの会場がまさに江戸東京博物館だった。なにやら恐ろしいほどにあれこれつながっていたのである。
そして日本橋三越本店に隣接するのは、江戸時代以来300年におよぶ三井家の歴史のなかで、日本でも有数の貴重な文化遺産を収集し伝えた三井記念美術館である。現在開催中の特別展は『北大路魯山人の美 和食の天才』。魯山人は1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を開いている。、魯山人と慶應義塾の間にもイサム・ノグチを介しての何かしらのつながりもあるのではないかと予想しているがまだ勉強が足りていない。博物館の訪問を重ねるとひとつひとつの点の理解が深まる。そしてある時に思いもよらぬつながりの線が見えてくるものだという実感がある。引き続き学びを楽しみたい。
今回のミュージアムクロシング
江戸東京博物館、東京国立博物館、日本銀行金融研究所貨幣博物館、三井記念美術館
- 本間 浩一(ほんま・こういち)
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- 慶應丸の内シティキャンパス プロジェクトデザイナー
- 慶應義塾 福澤諭吉文明塾キュレーター
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