ピックアップレポート
2020年08月11日
平野 昭『ベートーヴェン 革新の舞台裏―2020年 ベートーヴェン生誕250年―』
生誕250年に想う
ちょうど半世紀前、ベートーヴェン生誕二百年を迎えた1970年の日本は、大阪・千里を会場とした万国博覧会一色の年だったと記憶している。ベートーヴェンに関しては、ドイツのレコード会社がボンのベートーヴェンハウス及び隣接研究所の全面協力で、第一線の研究者たちによる極めてアカデミックな解説書付きの豪華なLP盤ベートーヴェン全集を出版したのが最大の話題であった。貧しい学生が個人で購入できるものではなく、大学や公立図書館の視聴覚室でむさぼるように聴いたのを思い出す。
半世紀とはなんと、あっという間のことだろう。
生誕250年を迎えている2020年は二度目の東京オリンピック開催に向けて東京の都市構造までもが大きく変化しようとしている。そして、ベートーヴェンの音楽は、今やさまざまな演奏会で生で楽しむことが容易になった。
わたしのベートーヴェン体験を振り返ってみれば、SPレコードに始まり、LP、CD、LD、DATそしてDVDと録音録画媒体が次々に開発発展する激動の半世紀とともに歩んだことになる。そこにはいわゆるライナーノートと呼ばれる作品解説が必ずあり、それを読むのも楽しみのひとつであった。作品情報を提供してくれる解説書に、相互矛盾や単純な誤りが含まれていることも少なくなかった。解説はありがたいのだが、中途半端な情報は作品イメージをミスリードしかねない。
例えば、ベートーヴェンが自ら「新しい道」と呼び、従来にはなかった「全く新しい手法」によって作曲したピアノのための変奏曲作品34と作品35があるが、後者は長い間、極めて不合理なことに《エロイカ変奏曲》という愛称で親しまれてきた。当然、交響曲第3番《エロイカ》作品55から取られた主題による変奏曲、という理解、否、誤解を導くことになる。この変奏曲の成立は1802年晩秋だ。一方、交響曲《エロイカ》の作曲は1803年から04年なのである。実はこのピアノ変奏曲の主題は1800年暮れから1801年初頭にかけてに作曲されたバレエ音楽《プロメテウスの創造物》作品43の終曲からとられたものであり、さらにこの主題は1800年の作曲と推定されているオーケストラ曲《12のコントルダンス》WoO14の第7曲こそ原型なのだ(※1)。
四年余にわたって『音楽の友』に連載した中からベートーヴェンの項目を抜き出し、『ベートーヴェン 革新の舞台裏: 創作現場へのタイムトラベル』にまとめた。本書で私が示したかったのは、実は、まだまだこれから深い研究の必要な作品についての問題提起でもある。しかし、このシリーズで選んだ作品の中には広く親しまれてとは言い難いものも少なくない。そうした知られざる傑作の紹介にも配慮したつもりである。是非ともこの機会にベートーヴェンの音楽に少しでも関心をもち、そして大いに親しんでいただきたい。
解説の役割
ところで、音楽を鑑賞するのに余計な解説は不要なのかもしれない。
リラックスした気持ちでひたすら演奏に耳を傾ければ自然と心は動き、頭のなかにさまざまなイメージがうかんでくるかもしれない。それでよいと思う。この作品のこういうところが好きだ、この作品はあまり好きではない。それでもよいと思う。
まず、聴きこんで聴きこんで好きになること、あるいは好きな作品、好きな演奏を見つけることが大切である。解説を読むのはそれからでも遅くない。
しかし、人は欲張りで好奇心のかたまりだ。
好きな作品についてもっと知りたくなる。作曲者はどのような意図で作品を創作したのだろうか、何か特別な目的があったのだろうか、と。そこで、好きになってから、何か解説を見ればよいと思う。解説にはそれに応える役割があり、魅力がある。
ただ解説というのは、ベートーヴェンのように歴史的な作品の場合、そのほとんどが第三者による解釈であり、伝聞情報であるのがふつうだ。作曲学的な形式分析の方法で、音楽作品の構成や構造を譜例や図式を駆使した文章で記述したとしても、一見客観的に見えるそうした分析も第三者の解釈のひとつでしかない。
現代の作曲家が自ら書いた作品について、初演時のプログラムに寄稿する創作意図や創作過程と作品構成について述べた作品ノートだけはそれなりの価値を有する。しかし、それでも作品解釈は別である。情報記号としての楽譜を演奏することで、音楽は初めて顕在化するが、その演奏行為自体が演奏者(第三者)による解釈であるからである。
そして、だからこそ、音楽芸術は無限に面白い。演奏者も鑑賞者も、作品について個々にそれぞれのイメージを描こうとするからである。すべての解説はその補助でしかない。
では、どんな解説がよい補助となるだろうか。そんな思いから拙書を著した。これまでの作品解説では触れられなかった創作の動機や目的等々、作品成立の舞台裏の事情について、最新の世界のベートーヴェン研究の成果を踏まえて、“やさしい読み物”として紹介することを意識した。ベートーヴェン音楽ファンやこれからベートーヴェンの作品を聴いてみたいという方々が、自由に名曲を楽しみ、それぞれの作品鑑賞で豊かなイメージを描く、そのガイドとなれば幸いである。
(※1)本文45~47ページに記述。
『ベートーヴェン 革新の舞台裏: 創作現場へのタイムトラベル』(平野 昭著、音楽之友社)のの「はじめに」「おわりに」を元に著者・出版社の許可を得て、加筆編集のうえ掲載しました。無断転載を禁じます。
- 平野 昭(ひらの・あきら)
- 静岡文化芸術大学名誉教授、音楽評論家
- 1949年横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻修了。専門領域は西洋音楽史、音楽美学。18~19世紀ドイツ・オーストリア音楽の様式研究および音楽受容史研究を個人研究の課題としている。尚美学園短大助教授、沖縄県立藝術大学教授、静岡文化芸術大学教授、慶應義塾大学教授を歴任。東京藝術大学音楽学部、国立音楽大学大学院、成城大学大学院、東京音楽大学大学院等の非常勤講師も勤める。日本音楽学会・国際音楽学会・18世紀学会各会員。
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