ピックアップレポート
2020年09月09日
阿刀田 高「丸の内で小説を勧める」
八年ほど前から東京・丸の内のビジネス街で文学講座の講師を務めている。カルチャー・センターなどの読書教室のようなもの。だが実質は少しちがう。ちがうような気がする。
もっぱら小説を扱っているが、読書会などで小説をテーマとすると、“この名作の真価は何か”とか、“作品を通じて人生の教訓をえよう”とか、立派な目的が伏在しているケースがほとんどではあるまいか。
丸の内では聴講者に界隈のホワイト・カラーや元ホワイト・カラーが多く、ビジネスの現場の厳しい業務体験を持つ人たちが多い。文学の関心など薄かった人もいる。クラスは二十人前後、授業料は少し高価だが、密度は濃い。
そして、なにより講座の目的は、“おもしろい小説を読もう”なのである。
もちろん小説のおもしろさは、読者により異なる。しかし充分に知的好奇心を持ちながら、りっぱな小説ばかり勧められ、おもしろい小説にめぐりあわない人が世間には少なからず存在しているのではあるまいか。
私自身は(ちょっと大げさかもしれないが)人生を通じて、“小説はおもしろいのが一番”と信じ、それを求め続けてきた。その体験を企業戦士たちにささやいてみようと、この講座に臨んでいる。初めから強く意図したわけではないが、続けるうちに、いかにもエリート・サラリーマンらしい受講者から「小説ってこんなにおもしろいものなんですね」と漏らされ、気をよくしている次第なのだ。
テキストには、定番の名作もあるが、そればかりではない。どこかにおもしろさがあると信じる作品ばかりだ。聴講者の忙しさを考えて短編を多くテーマにしているが、これもそればかりではない。
たとえば山本周五郎の『柘榴』を選んだ。男性が女性のセックスのみをいとおしく思うのは卑しいことなのか、愛ではないのか、この問いかけにヒロイン自身が人生体験を積み、「あれもひたむきな愛であった」と気づく佳編である。みごとに描かれ、中年諸氏には興味深い。
夏目漱石の『それから』は“文学は倫理に反しても個人の切実な願いを訴えるものだ”を描いて間然するところがない。伊藤整などの古いエッセイなどを紹介して、社会的テーマとして考えてみた。
村上春樹の『ハナレイ・ベイ』は、女性の、母の生き方と、事故死をした息子との関わりを描いて、おもしろい。ハワイを知る人も多く、そのあたりにも関心が赴く。
松重清の『母帰る』と菊池寛の『父帰る』は時代の隔たりが痛感されて、ほどよい対照となる。前者の方言(広島弁かな)が小説を楽しくするための機能として話題になった。
太宰治の『きりぎりす』は、「太宰の巧みな自己弁護ね」「この女、厭な女だな」「キリギリスってコオロギのこと?」などなどいろいろ話題に花が咲く。
ジョン・コリアの『死者の悪口を言うな』は作者の名を知る人も少ないだろう。推理小説は普通殺人動機があり殺人方法が示され、そこからストーリーが展開していくが、これは動機も殺人方法も持たないお人よしの田舎医師が、その二つを図らずもえてしまうストーリー。ミステリーの構造がおもしろい。
ついでアイラ・レヴィンの『死の接吻』をテーマにした。ミステリー・ファンならだれもが絶賛する名作だ。推理小説が誕生してからほぼ百年、新しいトリックを創るのにどんな苦心をしたか、その歴史を駆け足でたどり、またドライザーの『アメリカの悲劇』との関連にも触れた。
カズオ・イシグロの『老歌手』はアメリカの芸能界の不思議さが話題となり、あわせてジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』では「アメリカの夫婦って他人同士なんですよ。だから毎朝キスをして夫婦であることを確認するんですね」と海外生活の体験を持つ聴講生たちから活発な意見が出て、教えられることが多々あった。
遠藤周作の『沈黙』は充分に重たいテーマであり単純に楽しむのはどうかと思うけれど、「カトリックの信者はこれを許さないだろうね」「遠藤さんは悩みに悩んでここにたどりついたんでしょう」「ノーベル賞は無理ね。選考委員にカトリックの人もいるだろうし」。ワールド・ワイドの意見が交わされた。これは映画も鑑賞して、作品をわかりやすくしたと思う。
向田邦子の『春が来た』は「この男、なによ。結婚詐欺じゃないか」「神さまなのよ。訪ねて来て幸福をもたらし、急に去って行くのね」。向田ファンも多く、「冷たい視線が多いのは、いつも」「そこがおもしろい」「比喩が多いでしょ」「それがうまいのね」作品の本質をえぐる意見が多くあった。
モームの『物識先生』やO・ヘンリーの『賢者の贈り物』など英米の短編小説の軽い味わいも、「小説はこれでいいんじゃないか」「ちょうどいい頭の体操になる」などと軽い楽しみを訴える声も多かった。
綴っていたらきりがない。すでに五十を越えた小説を扱っている。要は私の好みを基本として、「おもしろい小説は確実にありますよ」と例示すること。勝手な数値を言えば、この世の中に小説を絶対に好まない人が二〇%くらいはいるだろう。しかし、それ以外はおもしろいものにめぐりあえば、充分に楽しいのだ。知的な作業を営む諸氏諸嬢に小説のおもしろさを単純に、ひたすら訴え、現在の、そして老後の楽しみを備えていただきたい、と切に願っている。
日本経済新聞 2019年5月5日 P32 文化面を著者・新聞社許可を得て掲載しました。無断転載を禁じます。
- 阿刀田 高(あとうだ・たかし)
- 作家
- 昭和10年(1935年)東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業後、11年間、国立国会図書館に勤務。その後軽妙なコラムニストとして活躍した後、短編小説を書き始め、昭和54年『来訪者』で日本推理作家協会賞、短編集『ナポレオン狂』で直木賞を、平成7年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。著書には『知っていますか』シリーズ、小説『闇彦』、『知的創造の作法』など多数。
2003年紫綬褒章、2009年旭日中綬章受章、2018年文化功労者顕彰。日本ペンクラブ第15代会長、1995年から2013年まで直木賞選考委員、2012年から2018年3月まで山梨県立図書館館長を勤めた。
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