ピックアップレポート
2021年11月09日
美山 良夫「南葵音楽文庫と慶應義塾」
三田の慶應義塾図書館には、一時期、世界有数の音楽コレクションが預けられていた。大作曲家の自筆楽譜、バッハのオルガン曲やベートーヴェン「第九」の初版、同曲を上野の東京音楽学校が初演したときの楽譜一揃いなどに加え、太平洋戦争中一九四二年、ワーグナー《ローエングリン》を藤原義江らが歌舞伎座で初上演した際に用いた楽譜もあり、慶應義塾図書館の貸出票が貼り付けられている。
総数は三万点に及んだという音楽書、楽譜を蒐集したのは徳川頼貞(一八九二 – 一九五四)。紀州徳川家の第一六代当主で、ケンブリッジ大学で音楽を学んだ。その時同宿であったのが小泉信三で、ともに欧州を旅してもいる。留学中に音楽堂建設を構想、英国の建築家に設計を依頼し、パイプオルガンまで発注した。W・M・ヴォーリズが実施設計を担当した南葵学堂が麻布飯倉の自邸内に完成すると、優れた演奏家を招聘し演奏させたばかりでなく、音楽図書室を併設し、運営にもあたった。
戦前、三たび欧米に滞在し、プッチーニ、サン=サーンス、コルトー、カザルスら著名な音楽家と交流したばかりでなく、チェンバレンやポアンカレといった要人とも親しくしたというから驚く。四半世紀にわたり塾長を務めた鎌田栄吉らと東南アジアを歴訪してもいる。
だが世界恐慌の影響は紀州徳川家の財務にも深い傷を与えた。麻布の本邸を手放すにあたり徳川頼貞が音楽資料の寄託先としたのが慶應義塾で、受入側の責任者が図書館長になっていた小泉信三であった。東京大空襲をかろうじて免れた資料郡は、一時人手に渡ったものの半世紀前にほぼ無事が確認され、その後は読売日本交響楽団が所蔵してきた。
二〇〇四年の夏、今は文学部教授になられた西川尚生氏らとともに所蔵場所を訪問、ベートーヴェン、リスト、ベルリオーズなどの自筆楽譜はじめ、膨大な資料郡を実見する機会に恵まれた。その直後、塾内にデジタルメディア・コンテンツ統合研究機構が設立された。そのプロジェクトの一環として貴重資料のデジタル化を提案、楽団側の協力も得られ、五年の間に膨大な高精細画像が蓄積された。
楽団側は所蔵資料を公開する途を模索し始めたところ、和歌山県の仁坂吉伸知事から、紀州徳川家所縁の地で公開してはどうかとの打診が寄せられた。寄託契約をふまえ、和歌山県立図書館で公開が始まったのが二〇一七年。楽団の理事を辞した私は、今度は和歌山県の依頼でこのコレクションのための事業を手掛けるようになった。せっかく公開したからには、ガイドブックが必要であろうと感じ始めていたところ、紀州徳川家四〇〇年記念事業についての相談があり、結局三点の書物の同時出版が決定した。慶應で南葵音楽文庫に関わりはじめて一五年、そろそろ纏めなくてはとの思いもあり、取り掛かるがそう簡単に書物ができるわけではない。だいぶ遅延したが、この春、三点を中央公論新社から上梓することができた。
徳川頼貞自身が音楽遍歴と交友を綴った自伝的な『薈庭楽話』は、初版刊行(一九四三年)に先立って親しい人のみに配った私家版の復刊。時局柄、欧米崇拝的な記述を削除する前の、初々しい体験やヨーロッパ音楽文化の精髄を日本に伝えようとする行動が記されている。『徳川頼貞侯の横顔』は、側近であった文学者の喜多村進が書き残していた原稿の公刊で、人となりや音楽への姿勢が活写されている。校註は林淑姫さんにお願いした。彼女は西洋音楽関係の蔵書を慶應義塾図書館に寄贈した遠山記念音楽財団付属図書館(後に日本近代音楽館)の主任司書をされていた方である。
『紀州徳川四〇〇年 南葵音楽文庫案内』は、徳川家の文化貢献の歩みにもページを割いた。そのおかげで、小泉家、鎌田家ばかりでなく旧紀州藩士たちと慶應義塾との深い繋がりも再認識させられた。毎月和歌山に出向き、音楽文庫の調査をしていても、義塾との繋がりを感得する日々が続いている。
『三田評論』(2021年7月号)より、「三田評論」編集人の許可を得て転載しています。無断転載を禁じます。
- 美山良夫(みやま・よしお)
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- 慶應義塾大学名誉教授
- 南葵音楽文庫研究員
- 慶應義塾大学、同大学院、およびパリ大学音楽学専攻博士課程に学ぶ。慶應義塾大学助教授、教授、同大学アート・センター所長等をへて2012年より現職。専門領域は音楽学、芸術学、アートマネジメント。
NPO法人芸術家のくすり箱(2005-現在)、慶應義塾大学アート・センター(所長2009-2012)、南葵音楽文庫研究員などを通じ、現代社会における芸術活動(-現在)の役割を担い、理論研究と実践活動を積極的に行っている。
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