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2024年09月11日

平藤 喜久子『神話でたどる日本の神々』

平藤 喜久子
國學院大學神道文化学部教授



<関連講座>
平藤喜久子さんとめぐる【神話が生み出したもの】~神、神話を知ると、アートはもっと深くて面白い~
2024年10月26日(土)開講

 なにか願い事があるときや、想いを振り切って次に進みたいとき、神社に行く人は多いでしょう。お正月に初詣にでかけ、一年の無事や健康、幸せを願う人もたくさんいます。人々がその願いを託しているのは神です。
 そんな神々について、わたしたちはどのくらいのことを知っているでしょうか。多くの人が縁結びを願う神、安産祈願をする神、健康を願う神。一般的に御利益という言い方をしますが、神々には得意分野があるといっていいでしょう。なぜその神の得意分野が縁結びなのか。知ってみたいと思いませんか?

 神々の話、すなわち神話は、日本では八世紀に古事記や日本書紀にまとめられました。多くの神々の物語は、これらに伝えられています。たとえば、太陽神で最高神のアマテラスの天の岩屋神話やスサノオのヤマタノオロチ退治の神話、オオクニヌシの因幡のシロウサギの神話などがよく知られています。このほかにも地方の伝承を伝える風土記もあります。たくさんの神々がこれらに登場し、ときに人間の間でも起こりそうな問題に直面したり、「さすが神!」というような活躍をしたりします。
 ほかにも人々の間で自然と信仰が生まれてきた民俗神と呼ばれる神々や、菅原道真(天神様)のようにもともと人間だったという神もいます。神話というよりも伝説、伝承といったほうがふさわしい物語が神の話を伝えることもあります。

 そんなさまざまな形で伝わってきた神々について、神の行動や姿形といった特徴ごとに見てみると、世界の成り立ちに関わる神、人間の命に関わる神、恋をする神や不思議な姿をしている神などがいます。このように神々をあえて分類してみると、神々の間の意外な共通点が見えてきたり、自分なりのお気に入りの神が見つかることもあるでしょう。みなさんも、あらたな神々の魅力に(ときには欠点にも)気がつくかもしれません。
 神話はもちろん神話の世界、空間で展開します。しかし、昔から人々は自分たちの暮らす世界のなかに神々の世界を重ね合わせ、神々の息吹を感じ取ってきました。人々がどんな場所に神々の世界を見出したのか、いつかみなさんにも訪ねていただき、神話を体験してもらいたいと思っています。
 世界のはじまり、恋愛、動物、みなさんの気になるキーワードはどれですか?どこでも気になったところから、神々の世界への扉を開いてみてください。

神はどんな姿をしているの?

 神は謎にみちています。神についてのもっとも古い記述を残す古事記によると、神々ははじめ「成った」、つまり自然発生的に生まれてきたとあります。最初の神は、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスヒ(高御産巣日神)、カムムスヒ(神産巣日神)といいます。天の中心の神、ムスヒ(生じる力)の神ですから、抽象的な存在のようです。性別もはっきりしません。ほかにも野の神、山の神、風の神など、自然そのものであるかのような神も登場します。

 今も日本では山や岩などの自然物に神が宿ると考え、神そのものとして祀っているところがあります。神の宿る山(神体山)といえば富士山がありますし、しめ縄の張られた神の宿る岩(磐座)、木(神木)を見かけたことがある人は多いでしょう。こうした自然物を神としていたのは古くからのようです。古代の神祭りの様子を知る手がかりとされる場所に奈良県桜井市の三輪山があります。美しい円錐形の山で、山中の山ノ神遺跡(四世紀から六世紀頃)では、巨石の下から勾玉などが出土しています。稲作が各地に広まった弥生時代の頃から、作物の実りを神に祈ることが行われるようになったようですが、そのときの神は自然のなかにあるもの、自然そのものと思われていたのかもしれません。

 日本神話の最高神アマテラスは、天照大神と表記することからもわかるように、太陽の神です。だからといって太陽そのものの姿かというとそうではなく、衣服や髪形、装飾品についての記述もありますので、人間と同じ姿形でイメージされていたのでしょう。オオナムチ(オオクニヌシ)も、姿が美しく、おしゃれだったようで、色とりどりの服を取り替える歌なども伝えられています。おかしな言い方かもしれませんが、人間らしい姿形の神々もいると思われていたのでしょう。しかし、そんな神々が人間たちの前に姿を現すことはほとんどありません。神功皇后は、神がかりをして神の言葉を述べますが、アマテラスと出会うことはありませんでした。

 ヤマトタケルが出会う神は、白い猪の姿。神武天皇が熊野で出会う山の神は熊の姿をしています。動物の姿をした神もいることから、神とはこのような姿をしている、といった共通のイメージは持たれていなかったと考えることができます。
 さて、ヤマトタケルが出会った神は、彼に死をもたらします。神武天皇の場合も、神は人々を昏倒させてしまいます。神とは人々に福をもたらすだけではなく、ときに災いも与えるものであることがわかります。

 もちろん今と同じように、神に安全を願うことも行われていました。万葉集には「天地の神も助けよ草枕 旅行く君が 家に至るまで」(巻四・五四九)という歌が伝えられています。石川足人が、太宰府から転出するときの別れの宴で詠まれたもので、神に旅の無事を願っています。
 こうして古代の神々について考えてみると、恐ろしい面、ありがたい面、どちらも持っており、また姿形もいろいろあることがわかります。すでに複雑ですね。

神と仏はどんな関係?

 さらにここに仏教の影響が加わることになります。六世紀、朝鮮半島から日本に仏教が伝わりました。仏のことを、はじめは蕃神と呼んでいました。自分たちの国の神に対して、外国からきた神だという意味です。新しい外国の神に抵抗感を示す人々もおり、仏教の受け入れに積極的な崇仏派と、それを排除したい排仏派に分かれ、対立も生まれましたが、飛鳥時代の推古天皇の頃(六世紀末から七世紀初)には、聖徳太子のように篤く仏教を信仰し、奨励する人たちが出てきます。そうしたなかで、次第に神と仏の関係は対立したり矛盾したりするものではないと思われるようになっていきました。

 八世紀にはいわゆる神仏習合という状況も生まれます。神も人間と同じように悩む存在であり、仏の力で解脱させなければいけないとする「神身離脱」の考えが生まれ、神社の中に「神宮寺」も作られるようになりました。また、神は仏教を護る存在であるとする発想も出てきます。有名な例が八幡神です。九州の宇佐を本拠としていた八幡神は、東大寺の大仏建立の際に奈良の都に上り、大仏造営を援助しました。また、僧の道鏡が皇位をうかがう事件が起こったときには、託宣を出して阻止しました。こうした功績があったため、七八一年には朝廷から神号として「大菩薩」が贈られ、「八幡大菩薩」となります。菩薩とは、修行中の仏のことを意味します。八幡大菩薩は、修行をしている仏である八幡神神の意味となります。

 神仏習合は千年以上続き、そのなかで神と仏の関係についても複数の考え方が出てきます。仏は日本の人々を救うために日本の神となって表れたのだ、とする考え方は「本地垂迹説」といいます。仏が本来の姿(本地)で、神が仮の姿(垂迹)です。逆に、神こそが本地で仏は垂迹なのだとする反本地垂迹説も登場します。「仏が権りの姿で現れる」の意味で「権現」も使われるようになりました。徳川家康は死後に東照大権現となりますが、これは「東を照らす薬師如来が徳川家康という仮の姿で現れた」ということです。本地が薬師如来、徳川家康が神とされていることがわかります。

 長く続いた神仏習合は、時代が江戸から明治に変わるときに終わります。一八六八年に維新政府から「神仏判然令」が出され、神と仏、神社とお寺、神職と僧侶をはっきりと分けなければならなくなりました。そのため「八幡大菩薩」や「~権現」のような神と仏が一緒になったような言い方もなくなります。しかし、いまも徳川家康のことを「権現様」と呼ぶことがあります。まったくなくなったわけではなく、日本人の記憶のなかに残っているものでしょう。「神仏」といった言い方をしたり、「神様仏様!」と願ったり、「神も仏もないものか」と嘆いたりするとき、多くの人はその違いをあまり考えていないと思います。しかし、こうした言い方の背景には、とても長い神仏習合のなかで培われた神と仏についての深い関係が潜んでいるかもしれません。

日本の神話を知ろう

 日本語の「神」は、長い歴史のなかで広い意味を包み込んできました。
 古代の神々について知りたいときに手がかりとなる重要な資料を紹介しましょう。それは八世紀に編纂された古事記、日本書紀、風土記です。これらには日本の神々の物語、つまり神話が伝えられています。
 自分たちが生きているこの世界はどのようにしてできあがったのか。人はどのようにしてこの世に現れたのか。人はなぜ死ぬのか。死んだらどこへ行くのか。疑問の持ち方はいろいろですが、今わたしたちが生きている世界の成り立ちについての疑問は、人にとって根源的ともいえるものでしょう。神話は、このような問いについて神を主人公として答えてきたものです。ですから、人が人としての心を持つようになったころから神話は存在していただろうと考えられています。

 神話は人々が生きる文化のなかで育ち、受け継がれ、語られてきました。当然のことながら、それぞれの地域、文化で神話をめぐる事情は異なります。神話が宗教の聖典のなかで伝えられる場合もあれば、個人の文学作品や戯曲の中に伝えられたり、あるいは文字化されずに口誦で伝えられ(口伝)、祭りのときに披露されるといったこともあります。日本では、八世紀に天皇を中心とする大和朝廷の政治体制のなかで神話がまとめられることになりました。

 七世紀半ば、専横をきわめていた蘇我氏を討ち、天皇を中心とする大和朝廷による中央集権的な国家の建設をめざす大化の改新がおこなわれました。その中心にいたのが中大兄皇子です。この中大兄皇子は、のちに天智天皇となり、戸籍(庚午年籍)を作るなど、国作りを続けていました。その天智天皇の亡き後、息子である大友皇子と弟子である大海人皇子との間に皇位をめぐって争いが起こります。この壬申の乱を制したのは大海人皇子でした。天武天皇の名で知られています。彼は朝廷を二分する争いを経た直後から、朝廷中心の国家作りを行わなければならなかったのです。このような状況下で、「歴史」を紡ぐことが政治的にも重要な意味を持つと考えられたのではないでしょうか。

 かつて有力な氏族は、自分たちの家の歴史を持っていたようです。先祖がどんな活躍をしたかを伝えていたのでしょう。またルーツが神であると伝える家もありました。それぞれの家がばらばらに伝承を持っているわけですから、それを付き合わせてみると矛盾が見つかることになります。ある大事件のとき、A家の先祖が活躍したと伝えるA家資料、B家の先祖が活躍したとするB家資料の二つの資料があると、その事件がどういうものであったのか、わからなくなってしまいます。事件を伝えていくために、どちらかを選ぶ必要があります。アマテラスの子孫であるとする天皇家を中心に国作りを進めていく上で、神々の時代にさかのぼって歴史の決定版を編纂していく。そのことが求められたのだろうと考えられます。そうして生まれたのが古事記です。古事記の序、いわゆる「はじめに」のところから、古事記が必要とされた経緯がこのようなものであったことを読み取ることができます。

 序によると天武天皇は、稗田阿礼という暗記力に優れた若者を選び、彼に家々に伝わる伝承を学ばせました。天武天皇はその後亡くなってしまいますが、彼の息子の妻でもあった元明天皇のときに、古事記編纂の事業が再開され、太安万侶という役人によって成し遂げられることになります。七一二年のことでした。

 古事記は上・中・下の三巻からなります。このうちの上巻が神代、すなわち神々の時代です。中巻は初代の神武天皇から応神天皇まで。下巻は仁徳天皇から推古天皇までのことがまとめられています。神々の物語、神話は主に上巻に語られていますが、中巻になったからといって神々が登場しなくなるわけではありません。神の子孫である神武天皇の物語、英雄・ヤマトタケル、そして神功皇后の物語など、主人公は人とされていますが、神々と交流する話が豊富に語られています。下巻になると神の登場はほとんどありませんが、唯一、雄略天皇は神と出会う物語が伝えられています。いわゆる神話と呼ばれている部分だけでなく、こうした人の時代の物語も古代の人がどんな神とどう付き合っていたのかを知る大事な手がかりとなります。

 古事記は、「フルコトブミ」ともいいます。「古いことをお話ししますよ」といえば、それが自分たちに関わることなのだということがすぐに分かる範囲で読まれることを前提としているのでしょう。つまり、古事記は子孫たちに向けて作られたといえます。前に「神」(カミ)の語源について紹介したときにも触れましたが、当時は表意文字である漢字を表音文字として使って大和言葉を伝えていました。古事記にもそうした使い方が多く見られます。とくに固有名詞、歌、神名、地名です。たとえば「くらげ」は大和言葉です。それを漢字を使って表現するわけです。中国で使われていた方法だと「海月」が「くらげ」を意味しますが、そう書くのではなく、「久羅下」とかいてその音を伝えようとしています。これは古事記が自分たちの物語、文化を後の時代の人々にそのまま伝えたいとする意識があったことを意味しているのでしょう。

 古事記が編纂された八世紀は、大和朝廷が国内をまとめる力を強めていく時期でしたが、同時に国際政治のなかでも自国の立場をアピールしていこうとしていました。対外的に、自分たちの国はこのような国なのだと伝えることも考えて編纂されたと考えられるのが日本書紀です。古事記は「フルコト」といえば通用する範囲で読まれることを想定していたと思われますが、日本書紀は、「日本」と国名をつけています。国際社会、日本以外の国を意識していたのでしょう。古事記は万葉仮名を多く使っていましたが、日本書紀は比較的純粋な漢字で記されています。このことからも日本書紀が漢字文化圏、とくに中国(当時は唐)で読まれることを想定していたとわかります。編纂の責任者は天武天皇の皇子である舎人親王です。古事記の太安万侶に比べると大変身分が高い人物でした。日本書紀は七二〇年に成立すると、最初の正式な歴史、「正史」と位置づけられ、その後朝廷でも尊重されていました。国として力を入れて編纂したものだったのです。
 この日本書紀は全三十巻。そのうち巻一、巻二が神代、すなわち神話となっています。最後は天武天皇の妻であった持統天皇までを記しています。

 古事記も日本書紀も神代を伝えていますが、その伝え方には表記の点だけでなく、異なっているところがあります。重要な違いとしては、古事記が一つの視点から物語を語るのに対して、日本書紀は「一書曰」の形で複数の異伝を記していることが挙げられます。古事記が決定版となることを目指したのに対して、日本書紀は一つにまとめられる前に複数の文献が存在していたことを示しているのでしょう。A家、B家に伝えられていた矛盾しているようにもみえる資料。そうしたものがあったのだということを日本書紀は教えてくれているといえます。

 さて、中央集権国家を目指す大和朝廷にとっては、地方を把握することも重要です。そのため、古事記が編まれた翌年、七一三年には朝廷から地方の国々に対して、それぞれの国の地名の由来や老人の言い伝え、土地の特産物などを報告させる命令を出しました。この命令に従って地方の国単位で編纂されたのが風土記です。各国で編纂され「~国風土記」と称されました。しかし、残念なことに現在まで伝えられているのはごくわずかです。完全な形のものは「出雲国風土記」(島根県)のみ。そのほか播磨(兵庫県)、常陸(茨城県)、豊後(大分県)、肥前(佐賀県、長崎県)の風土記が、不完全ながらも伝えられています。これらを併せて「五風土記」といいます。失われてしまった風土記のなかには、後世に他の資料の中に部分的に引用されたことで内容が伝わっているものもあります。それを「風土記逸文」といいます。風土記には古事記や日本書紀には登場しない物語、神々も伝えられています。逆に古事記や日本書紀に登場している神が、風土記では違った顔を見せていることもあります。風土記もまた、その土地の人々と神々との関わりを知る貴重な資料なのです。

 ここまで古事記、日本書紀、風土記といった日本の神話を伝える資料について紹介してきました。しかし、奈良時代以降も神は生まれ、神話もあらたに語られてきました。その神を祀っている神社の資料や説話集、歴史物語にも神々は登場します。ぜひ、さまざまな資料や神社などから神々の足跡を探し、その姿を訪ねてみてください。

 そしてまた、神話はアートの世界にも大きなインスピレーションを与え、創造の泉となってきました。今秋10月開講の神話学講座では「神話があったからこそ生み出されたもの」という観点から、神を祀る建築としての神社、神に奉納するために生み出された芸能、神や神話に着想を得た絵画や文学の世界を堪能します。ご一緒にアートの世界をめぐることを楽しみにしています。

神話でたどる日本の神々』(2021)の「はじめに」「第一章」より著者の許可を得て抜粋・編集しました。無断転載を禁じます。

◎平藤 喜久子先生のagora講座◎
平藤喜久子さんとめぐる【神話が生み出したもの】』 2024年10月26日(土)開講・全6回


平藤喜久子

平藤 喜久子(ひらふじ・きくこ)
國學院大學神道文化学部 教授

慶應MCC担当プログラム
平藤喜久子さんとめぐる【神話が生み出したもの】~神、神話を知ると、アートはもっと深くて面白い~

学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程日本語日本文学専攻修了。博士(日本語日本文学)。専門宗教文化士。専門は神話学、宗教学。
日本神話を中心に他地域の神話との比較研究を行う。また、日本の神話、神々が研究やアートの分野でどのように取り扱われてきたのか、というテーマに取り組んでいる。日本や海外の学生のために、日本の宗教文化を学ぶための教材を作るプロジェクトにも携わっている。

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