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ピックアップレポート

2024年10月08日

書と和歌 ―茶道に息づく日本文化

小堀 宗実
遠州茶道宗家13世家元 不傳庵

◎関連講座◎
小堀宗実家元に学ぶ【綺麗さび、茶の湯と日本のこころ】
2024年12月7日(土)開講

 あらゆる芸術文化の美を感受し、鑑賞し、また創造するところに茶道の本質があります。茶道が総合芸術といわれる所以です。掛物やさまざまな書状、あるいは茶道具の箱書きなどにも欠かせない「書」についてもしかり。鑑賞する書、したためる書、どちらも茶道の重要な要素といえます。

 遠州流茶道には、歌人、藤原定家(1162~1241)の書風「定家様」が今日まで連綿と伝承されています。ご存じのように定家は『新古今和歌集』の撰者であり、56年間書き続けた日記『明月記』の作者であり、そして「小倉百人一首色紙」の作成社でもあり、中世の歌学の権威といえます。

◇書はその人をあらわす

 小堀遠州は自ら多数の書を残しましたが、なかでも歌掛物については定家の書風に倣うものが多く見受けられます。書風もさることながら、定家の「有心体」といわれる歌風を好んだことも十分に想像できます。たとえば定家に、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
 浦の苫屋の秋の夕暮れ

という歌があります。夕暮れを詠った秀歌のいわゆる「三夕」の一つとして有名な歌ですが、この歌の心は、まさに茶道でいうところの「わび」の境地であるといわれます。茶道の世界を定家の心情が重なったといえます。

 「書はその人をあらわす」といいますが、遠州は、定家の和歌を愛唱し、さらに定家の人生観や精神、あるいは歌心といったものをより深く知るために、その書風までをも習得しようと努めたのではないかと思われます。

 ただ、遠州は定家様だけを習得していたわけではありませんでした。江戸幕府の要人でもあった遠州ですから、当時の官公庁で一般的に用いられてきた「御家流」も当然ながら習得していました。
 御家流とは、古く三蹟と謳われた小野道風、藤原佐理、藤原行成のよいところを取り入れた書風で、現に遠州が幕府が提出した書類などは、御家流で書かれています。

◇『明月記』を書写

 また、寛永の三筆に数えられた松花堂昭乗が友人だったことから、当然、松花堂の書風も学んでいたと思われます。
 しかし、定家をこよなく愛し、さらにかつての王朝文化を茶道に蘇らせようとした遠州にとって、定家様はやはり特別な書風でした。
 遠州はまた、定家直系の歌道宗匠家である冷泉家とも交流があり、冷泉為光、為頼親子から和歌を学びました。冷泉家で多くの定家の真蹟を見る機会を得た遠州は、『明月記』など定家の書写に懸命に取り組んだのでした。
 まるで定家の筆跡そのもとしか見えないほど一点一画忠実に書写しながら定家の書風に迫った遠州は、定家様の洗練せれた書風を十分に習得したうえで、そこに自らの個性を加えた独特の書風を確立したのでした。

和歌

 天保24(1555)年10月2日、茶席に初めて和歌の掛け軸が掛けられました。 
 堺の承認で草創期の伝説の茶人、武野紹鴎(1502~1555)が、同じく堺の商人、今井宗久を招いた茶会であったといわれます。
 それは、藤原定家直筆の「小倉百人一首色紙」のなかの阿部仲麻呂による有名な歌、

 天の原ふりさけみれば春日なる
 三笠の山に出でし月かも

でした。禅志向のなかで、いわゆる墨蹟が尊重されていた当時、初めての仮名の書で、しかも和歌が掛けられたということで、これは茶道の床の間における画期的な出来事でした。これ以降しばらく、小倉色紙が和歌掛物の代表格となり、定家筆の和歌の書は茶室だけにとどまらず、書院に飾って鑑賞するといった風習も生まれました。

◇歌にまつわる物語を茶器に

 遠州は和歌を好み、自らも和歌をよく詠みました。室町時代から江戸時代にかけての歌人を選んだ後水尾天皇勅撰の『集外三十六歌仙』に遠州作の

 風冴えてよせ来る波の跡もなし
 氷る入江の冬の夜の月

という歌が収められており、細川幽斎や伊達政宗などと並んで当時の武家歌人の一人に数えられています。遠州の所蔵品を記した『遠州蔵帳』にも多くの歌集の名が並び、遠州自身、『古今和歌集』『新古今和歌集』『和漢朗詠集』などすべてを暗記していたほどでした。

 遠州はまた、膨大な和歌のなかからふさわしい言葉を選んで、茶陶に銘をつけました。茶陶に歌から引いた歌銘をつけるということは遠州以前にもありましたが、遠州ほど多くの銘を和歌から引いた人はいません。遠州は歌にまつわる物語の世界を道具の美しさに付加し、器の美をより豊かにしようとしたのです。

◇流れてはやき月日なりけり

 たとえば、遠州が生涯で茶会に最も多く使った「飛鳥川」という茶入は、

 昨日といひ今日と暮らしてあすか川
 流れてはやき月日なりけり

という古今和歌集の春道列樹の歌を引いてきて、時代の変化と人生の移り変わりのはかなさを飛鳥川という瀬の急な川に託して銘をつけたものです。遠州は少年時代、大和郡山に住んでいましたが、そのとき近所に流れていたのが飛鳥川で、当時は非常に流れが速いことで知られていました。

 遠州が和歌を好んだのは、和歌のもっている季節感が大きな理由だったのではないでしょうか。今でこそ、春に梅の掛物を用い、冬に深めの茶碗を用いるといった季節感の表し方は当然のようになっていますが、遠州以前の茶会記を見ると、道具はあまり季節感とは関係なく使われていたようです。

 その点、和歌には必ず季節感があります。たとえば、茶道具に春の歌銘をつければ春に使いやすく、秋の歌銘をつければ秋に使いやすくなります。遠州は、和歌によって茶道に季節感と、それを味わう美の心を持ち込んだのです。

◇息づく日本文化、生きる実用

 茶の湯を通して心を豊かに。
 これは私が、遠州茶道宗家13世家元を継承したときのモットーです。以来、茶道宗家としての伝統文化の発展・普及に日々を過ごしてきました。茶の湯というと、お茶を点て、召し上がっていただく、お点前を思われましょうがそれだけではないのが茶の湯です。

 家元になる前に父から書斎に呼ばれて、遠州流の家元になるということは和歌が詠めなくてはいけない。書も「定家様」が掛けないとだめだと、改めていわれました。もちろん、書に関してはその前から、父がかつて稽古で使ったお手本を使いながら私も稽古していました。お手本は全部本物です。もちろん、書に関してはその前から、父がかつて稽古で使ったお手本を使いながら私も稽古していました。遠州の次男の権十郎という人が、これまた字がうまくて、その人が書いたお手本がありまして、これで練習しなさいと渡されました。遠州が書いた『定家筆道の記』というのがあって、筆をもつ位置など「定家様」ならではの筆のはこび方を学びました。

 和歌の心を知るとともに、和歌を体系化するということのほかに、じつはもうひとつ遠州が「定家様」を重んじた理由があると思います。それが、速書きです。現代のようにスマホもありませんし、メールもラインもありません。手紙を書くのはあたりまえの時代ですが、それにしても膨大な量がある。遠州の場合には、それこそなにをしていたかわからないくらいに仕事をしていますから、とにかく忙しい。手紙を書くのも相当に速く書く。その早書きに「定家様」はあっていると思います。実用性、実用の美があるのも茶の湯です。

 茶の湯に息づく日本文化は、しつらえた茶室、もてなす一服のお茶のなかだけでなく、日々にあり、生活の中にあります。(拙著『茶の湯と日本人と』におりこんだコラムをベースに、書と和歌をとりあげご紹介いたしました。)




 


小堀宗実

小堀 宗実(こぼり・そうじつ)
遠州茶道宗家13世家元 不傳庵

慶應MCC担当プログラム
小堀宗実家元に学ぶ【綺麗さび、茶の湯と日本のこころ】

昭和31年東京都生まれ。学習院大学法学部卒業とともに大徳寺518世福冨以清禅師のもと禅院の修行を積む。平成12年大徳寺管長福冨雪底老師より「不傳庵」「宗実」の号を授かる。平成13年元旦より12世小堀宗慶の後継として13世家元を継承する。門人の育成をはじめ、伝統技術継承のための茶道職方の指導を精力的に行い、茶道を通して地域貢献活動に積極的に取り組む。

『茶の湯を通して心を豊かに』をモットーに日本の伝統文化の普及と精神文化の向上に努め、海外においても国際文化交流活動を積極的に行っている。特に次世代を担う青少年の育成にも茶道を取り入れ、世界中の子供たちに向けて「遠州流茶道こども塾」を開講。また、茶室の設計・監修も精力的に手掛ける。

令和元年度外務大臣表彰、令和2年度文化庁長官表彰を受賞。

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