ピックアップレポート
2024年12月10日
《第九》作曲当時の風景とベートーヴェンの思い
初演200周年・日本完全初演100周年に寄せて
ベートーヴェン最後の交響曲にして、最高傑作。
交響曲第9番 ニ短調 作品125、通称《第九》は年末、季節の定番として親しまれているが、今年はさらに、特別である。ベートーヴェン指揮のもとこの曲が初演されたのは1824年。初演200周年、さらに、レコード録音100周年、日本完全初演100周年も重なり、まさに記念イヤーなのである。
《第九》はクラシック音楽史上の傑作とも賞され、世界平和の象徴的存在でもある。この機会に作曲当時の風景やベートーヴェンの思いなど、知られざる一面をご紹介したいと思う。
《第九》の初演
交響曲第9番 ニ短調 作品125。初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場であった。ベートーヴェンは当時すでにかなりの聴力を失っていたが、総指揮者としてかかわりこの初演に立ち会った。
地元のウィーンの『劇場新聞』と『ウィーン一般音楽新聞』、さらにライプツィヒの『総合音楽新聞AMZ』とマインツの『ツェツィーリア』等の紙誌が、この初演を詳しく報告し、作品それ自体を賞賛している。しかしそこに「交響曲様式の革命」といった評論はなく、声楽付きという楽曲構成に対する騒ぎ立ても見られない。なぜだろう。
意外な当時のリサイタルスタイル
当時の鑑賞スタイルにも理由の一端があるだろう。
1808年12月22日の《運命》と《田園》交響曲の初演コンサートでは、「ピアノ協奏曲第四番」の他に「ハ長調」ミサ曲からの抜粋章と《合唱幻想曲》等が演奏された、まさにオムニバス演目。交響曲の後に、重唱と合唱のついた宗教音楽がプログラミングされることは珍しくなかった。
《第九》の初演時も同様であった。《献堂式》序曲作品124と、《ミサ・ソレムニス》作品123から「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」の3章が抜粋初演され、これに続けて、《第九》が演奏されている。
聴き手の多くは、管弦楽伴奏の合唱曲と交響曲を同じ演奏会で聴くことに慣れていたのである。それは、あたかも「大カンタータ」を鑑賞したような印象ではなかっただろうか。交響曲史上初めての声楽付き作品、として知られる《第九》であるが、当時交響曲として認識されていなかった、少なくともいまの私たちの認識とは異なっていただろう、ということがわかる。
日本での完全初演
では、日本で初演された当時に、思いをはせてみよう。《第九》の全4楽章が初めて日本で演奏されたのは、1924年(大正13年)の11月29日、30日である。
東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第48回定期演奏会においてであった。両日とも大盛況で、1週間後には追加公演も行われこちらも満員であったという。指揮はドイツ人のグスタフ・クローンであった。
クローンは、ハンブルク楽友協会の楽長やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のソリストなどを務めたのち、1913年に外国人教師として来日し、東京音楽学校で指導にあたった。12年間の在職中にベートーヴェンの9つある交響曲のうち6作品の初演を手がけており、この《第九》は集大成であった。東京音楽学校では1924年4月の新学期早々、教官と学生が総出で、《第九》の猛練習を始め取り組んだと記録にある。
この初演の聴衆の一人、物理学者の寺田寅彦のエピソードがよく知られる。寺田は西洋音楽にも熱心で、ヴァイオリンをはじめ楽器演奏もした。《第九》初演を聴きに行くにあたっては、「事前にスコアを買い込み、レコードに合わせて「タクトを振りながら」念入りに予習したという。SP盤で10数枚にもなる《第九》は蓄音機で聴くだけでも大仕事である。」(『タイムカプセルに乗った藝大』https://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/o3.html)満席、大盛況であったことからやこうしたエピソードからどれほど熱狂的に迎えられた初演であったかが伺える。
冒頭と調に読むベートーヴェンのこだわり
そして、200年、日本では100年、演奏され続け愛され続けている《第九》であるが、その特徴からベートーヴェンの思い、願いをご紹介したい。
《第九》は「二短調」の交響曲で、周知のとおり終楽章の第4楽章は「ニ長調」の「歓喜の歌」で閉じられる。ちょうど《運命》交響曲が「ハ短調」で始まり、終楽章を「ハ長調」の勝利の行進で閉じているのと同じ考え方だ。全九曲の交響曲中、2曲の短調交響曲が同じ主音の長調(同主調)で結ばれるところにも、ベートーヴェンのこだわりを見ることができる。
ベートーヴェンは交響曲の開始に常に工夫を凝らしていた。
《第九》もその通りで、「ニ短調」であるはずの第1楽章の静かな開始で響いているのは、ホルンと第二ヴァイオリン、チェロによる「ラ」と「ミ」の二音だけだ。「ラドミ」で始まるイ短調なのか、「ラド#ミ」で始まるイ長調なのか、判然としない。いわゆる「空虚五度」(空白五度とも)による神秘的カオスだ。第一ヴァイオリンとヴィオラやコントラバスが投げ込む旋律断片も「ミラー」と「ラミー」であって、依然として調は確立しない。
第17小節になって、ようやく「レラーファレーラファーラファレー」という分散和音下降が響いて、これが「ニ短調」であることが判明する。翻って、開始の空虚五度を見れば、これがニ短調の属和音「ラド#ミ」の中間音(和音の性格を決定する重要な第三度音)を欠いた響きであったことが判明する。こうした、後から本当の意味が明らかとなる仕掛けこそ、実は複雑な終楽章構成を解明するヒントとなっている。
こめられた平和の祈り
《第九》には、フリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)による詩『歓喜に寄す(An die Freude)』が用いられている。《第九》のメッセージが「人類の平和」であることは、ベートーヴェンが選んだ詩句からも明らかだ。
しかしベートーヴェンは、シラーの頌詩を3分の1しか用いていない、のである。
シラーの頌詩は全9節108行からなるが、《第九》に使われたのは頌詩の前半に現れる36行のみである。シラーが頌詩に託した思想を《第九》の歌詞から読み取ることはできない。むしろベートーヴェンの意図は別にある、と言える。
《第九》合唱のキーワードは、「すべての人々は兄弟となる Alle Menschen werden Brüder」であり、「抱き合え、諸人よ! Seid umschlungen, Millionen!」や「この口づけを全世界に Diesen Kuß der ganzen Welt!」である。
「世の慣わしが厳しく分け隔てたもの」とは身分階級であり、それへの批判が「すべての人々が兄弟となる」である。この一行、シラーの初稿原詩では「乞食も王侯の兄弟となる」であったが、出版時の検閲を考慮して改訂したものだ。シラーの頌詩全体にフリーメーソン的思想を読み取れるとしても、ベートーヴェンのメッセージは共和主義的精神であり、社会的な「平和」の祈りであった。
《ミサ・ソレムニス》と《第九》をベートーヴェンが作曲していたころ、ウィーン会議(1814~15年)後のアンシャンレジーム体制下で、自由を求める運動と為政者側の対立が後を絶たなかった。いくつかを挙げると、
- 1819年、イエナ大学を拠点に結成された統一学生運動ブルシェンシャフトによる乱。この乱で、ベートーヴェンの劇音楽《アテネの廃墟》や《シュテファン王》の台本作家でもあった、劇作家コッツェブーが反動的として暗殺された。
- 1820~21年、ナポリ・ピエモンテ革命。イタリアのフリーメーソン的秘密結社カルボナリ(炭焼党)が自由を求めて神聖同盟国オーストラリア軍と戦い、敗れた。
- 1825年、ロシアのデカブリスト(12月党員)の乱。には、専制政治と農奴制廃止を求めて蜂起した。
など。作品誕生の背景には当時の時代背景とベートーヴェンの強い願いがあったと言えよう。
シラーの詩を大幅に変えた理由
1792年、ベートーヴェンは、シラーの詩『歓喜に寄す(An die Freude)』に感動し、これに曲をつけようと思い立った。
この詩はもともと『自由賛歌(Ode An Freiheit)』と題されていたもので、フランス革命後に、ドイツではフランス国家《ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)》の曲にのせてこの詩が歌われていたとも言われる。やがてシラーは、この詩を加筆修正し、『歓喜に寄す』とタイトルをつけ直しており、ベートーヴェンもこちらを採用している。しかし、詩を用いる際には、長さを3分の1ほどに翻案し、言葉の順番も入れ替えたうえ、大きな改編も行っている。
その代表的部分が、バリトン歌手がすくっと立ち上がって歌い始める、レチタティーヴォの歌詞の冒頭である。
おお、友よ、これらの調べではない!
もっと心地よく、さらに喜びに満ちたしらべを、
声を和して歌おう。
(O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere anstimmen
und freudenvollere)
この3行の言葉はベートーヴェンがつけ加えたものである。
これがシラーの頌詩『歓喜に寄す』の冒頭「フロイデ・シェーナー・ゲッターフンケン Freude, schöner Götterfunken(歓喜よ、神々の麗しき煌めきよ)」に先行して置かれている。特に重要なことは、「これらの調べではない」という、直前のものを否定する言葉だ。
このバリトンのレチタティーヴォの旋律は、この前にも現れている。この時には「否定の言葉はない」が、音楽進行とその構成から、楽章冒頭の管楽器群のよる「恐怖のファンファーレ」(第三楽章変ロ長調の終止和音「シ♭レファ」を終楽章開始の倚和音として木管群に置き、ティンパニとトランペットはニ短調の属音「ラ」を強奏するので、一瞬であるが激しい不協和の軋みがあるため)を否定していることは明らかだ。
このチェロ=バスのレチタティーヴォは、次々に回想される、第1楽章から第3楽章までの開始主題部をことごとく否定してゆく。そして、最終的に到達するのがチェロ=バスによって、静かに呈示される、素朴で明快な民謡風旋律からなる「歓喜主題」なのである。
この「否定」レチタティーヴォのアイディアが、交響曲全体を有機的に統合している。
「開放的循環形式」と呼ばれる。つまり、楽章枠を超えて主題を回想させることで、全曲を貫く遺伝子の存在を証明しているのである。しかも、第1楽章から順に否定することで、求める理想への道が段階的に接近してくるのを予感させている。
《第九》をより深く味わうために
12月は恒例で日本各地で《第九》公演が行われ、テレビやラジオでも放送されるので、皆さんも《第九》をお聴きになる機会が多いことと思う。ベートーヴェンは、《第九》でさまざまな音楽的革新も行っている。今回や記念イヤーにしぼりそれらはまた機会を改めたいと思うが、楽器の編成や第4楽章の形式構成については、演奏会の解説でとりあげられることも多いので参照されたい。
さいごに、ここまで詩に手を入れてベートーヴェンがこの曲を通して伝えたかったメッセージはなんだったのか、考えて終わりたい。それは歌詞で見ると、
汝の魔力は時流が強く切り離したものを再び結び合わせ、
すべての人々は兄弟となる
(Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt,
Alle Menschen warden Brüder)
というところに集約していると私は思う。
分け隔たれてしまったもの、たとえば身分の格差などを失くし、すべての人々が兄弟となるということを訴えている。ベートーヴェンは自由や平等、博愛の精神のために、シラーの詩を用いてこの曲を書いているのである。初演より200年、日本完全初演より100年、皆さんにより深くこの《第九》を味わっていただけたら幸いである。
平野 昭(ひらの・あきら)
音楽評論家、桐朋学園大学特任教授、静岡文化芸術大学名誉教授
1949年横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻修了。研究領域は西洋音楽史と音楽美学。主として1700~1949年までのドイツ圏の作曲家と作品研究、J.S.バッハからR.シュトラウスまで。尚美学園短大助教授、沖縄県立藝術大学教授、静岡文化芸術大学教授、慶應義塾大学教授を歴任、この間東京藝術大学、国立音楽大学、東京音楽大学、桐朋学園大学、京都市立芸術大学、愛知県立芸術大学、成城学園大学、立教大学、横浜市立大学等の非常勤講師も勤める。論文にはシューベルトのピアノ・ソナタ論、ブルックナーの交響曲論、ベートーヴェンのさまざまな作品論等多数。
主要な編著に『音楽キーワード事典』『ベートーヴェン事典』『ベートーヴェン大事典』『ベートーヴェン:カラー版作曲家の生涯』『ベートーヴェン:作曲家・人と作品』『ベートーヴェンとピアノ:限りなき創造の高みへ』『ベートーヴェンとピアノ:「傑作の森」への道のり』『ベートーヴェン:革新の舞台裏』等。
所属学会:日本音楽学会・国際音楽学会・18世紀学会・三田芸術学会・三田哲学会各会員。
日本ベートーヴェンクライス代表。
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