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ピックアップレポート

2007年05月08日

企業ブランドと企業倫理 ―組織のレピュテーションと価値観をめぐって―

梅津光弘 慶應義塾大学商学部准教授

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目をとめる。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからである。(コリント人への手紙II 4章18節)


1 ブランドと倫理の関係 ―ふたつの目に見えない価値
このタイトルを見た途端にブランドと倫理に何の関係があるのかと不思議に思われる向きもあろう。「企業ブランドを高めるために、企業倫理が重要だ」などと言えば、倫理学者の一部は激怒するに違いない。曰く「倫理とは人間の生き方に関する究極価値の探求であって、倫理とは何らかの目的達成の手段ではない。まして企業のブランドを高めるために(企業の金儲けのために?)、倫理を利用するとは何事!!」
また社会科学者の一部は、激怒まではしないものの「ブランドも倫理もどちらも多義的な概念であって、数量的な分析にはなじまない。こうした曖昧な概念同士の関係を論ずること自体が学問的にはナンセンス」という大変にクールな反応をするであろう。「企業ブランドと企業倫理の関係については大変興味があります、是非お話を伺いたい。」と触手を伸ばしてくるのは、一部の経営者やコンサルタントまた営業、広報担当といった職種である。かくしてこの種のトピックは実務の世界では切実な問題であるのに、学問的な裏付けや探求はあまり熱心に行われてきたとは言えない。
企業ブランドを理屈っぽい術語で表現しようとするとIntangible Assets(無形資産)の一種ということになる。Intangible を辞書で引くと、「触れることのできない、実体のない、無形の、雲をつかむような、ぼんやりとした、不可解な、漠然とした」といった意味が並んでいる。確かに「ブランド」とは何かと問われれば、何やらぼんやりとして、実体がなく、雲をつかむようなイメージといったところであろう。企業ブランドとは企業をとりまくオーラのような何かであり、レピュテーション(名声、評判)や信頼性などを総称した概念であるといえる。ブランドは企業だけでなく、世の中のあらゆる製品、個人、組織などに当てはまるものである。時代や社会によっても変わりうるつかみどころのない何かでありながら、人々の気持ちを魅了する不思議な力を持つものでもある。また実体を表しているブランドもあれば、全くの虚構、風説、神話であったりもする。ブランドをプラトン哲学の伝統的用語で言えば、真の知識(エピステーメー ギリシャ文字)の対象ではなく、臆見(ドクサ ギリシャ文字)ということになり、こうしたあやふやでうつろいやすい現象は、客観的で明晰・判明な真理の探求を業とする学者の間では昔も今も評判が悪い。
倫理の場合はブランド以上にIntangible である。ブランド価値は何らかの方式で資産として数量化する余地があり、またシンボリックなマークとして視覚化することもできる。ところが、倫理の場合は、倫理的価値が人間の行為や意思決定、さらには組織などの中に具現化することはありえても、倫理性そのものを目で見たり、数値で表したりすることはむずかしい。人間の胸あたりに聴診器のようなものをあてると、「この人の倫理度は○○度」、などと測れれば便利なのかもしれないが、いまのところこうしたことはSFの世界の話であり、そうした測定機器が発明されたとしても、その測定行為自体の倫理性が論議の的になってしまうであろう。
存在論的な地位のはっきりしないブランドと倫理性だが、だからといってこれらが現実に存在しないかといえば、そうではない。むしろこうした無形のリアリティーはいつの時代にあっても、人々の心の中に存在し、それは一般の人々にとっては常に関心の的であり、さらにこうした目に見えない価値を信じて人々は生きてきたといえるのではないか。目に見える資産や、数字に現れる利益、具体的なモノや商品さらには実証的なデータとその分析といったtangible な側面から価値をとらえようとしてきたのが現代社会であり、そうした試み自体も否定されるべきものではないとわたしは考える。しかし、ビジネスを含む様々な現実の営為が、生身の人間によって担われているということを考えあわせると、こうした即物的な側面だけを見ていたのでは、短期的な状況を把握することはできても大局的な方向性や全体最適を見誤ってしまう可能性が大きい。
2 企業不正行為とレピュテーション・リスク
実際、ここ二十数年の間に企業経営をめぐる学問と実務の世界では理念、哲学、倫理、価値観、社会的責任、ブランド、ロイヤルティー、レピュテーション、信頼、企業文化、組織風土といった、intangible でgooey なトピックが注目を集めるようになってきた。注目を集めるどころか、いまや倫理などは企業をはじめあらゆる組織の存続をうらなう死活問題になってきたともいえよう。
リスクマップ
上記の図をごらんいただきたい。これは、リスクマップとよばれるもので、アメリカの学者が、ある商社を想定して、その企業をとりまく可能なリスクをその強度と頻度との関係でプロットしたものである。
これによれば、レピュテーション・リスク(ブランドが崩壊するリスクといってもよい)は強度の点でテロのリスクなどと同等の破壊力をもつことがわかる。確かに昨日まで何の問題もなく機能していた企業であっても、ひとたび不祥事が発覚したとなると社内は騒然となり、あたかもテロ攻撃をうけた企業さながらに、社内は全く仕事にならない状態に陥るであろう。場合によっては、ワールドトレードセンターの時ほど急速ではないにしても、ボイコットやバッシングがつづけばトップの引責辞任にとどまらず企業そのものが崩壊ということにもなりうる。
レピュテーション・リスクはテロのほか地震や津波などの災害リスクとも並んで最強度の破壊力を持つリスクであるが、テロや地震などとの違いはその頻度にある。さすがに地震やテロはそう頻繁に起こるものではないが、不祥事の種になるような法令違反や非倫理的慣行は、組織のサイズが大きくなればなるほど、広汎に潜在している。そして、近年日本社会においてもこうした潜在的な課題事項(Issues)が明るみに出され、法令違反や非倫理的慣行を隠蔽してきた企業が社会からの厳しい糾弾をうける事例が増えてきている。
さらにレピュテーション・リスクのやっかいなところは、企業として効果的な対応の仕方がほとんどないという点である。
リスク対応
図2はそのあたりの事情をあらわしているが、物的損害リスクには保険をかけたり、為替変動などのリスクに対しては為替予約などの手法でヘッジすることが可能である。地震などの災害リスクも部分保険でカバーすることができるが、不祥事によるブランドの失墜と知的所有権侵害については保険もなければ、リスクヘッジの手法もないのが現状である。せめてできることは、企業倫理プログラムと呼ばれるコンプライアンスや価値共有の社内制度を構築して、社内でも徹底、浸透を図ることぐらいである。企業倫理プログラムがしっかりしていれば、不祥事は起きないかというと、それも確実とはいえない。例のエンロン社にも倫理綱領があり、アーサー・アンダーセンも80年代には熱心にコンプライアンスに取り組んでいた事実がある。要は表面的な制度を整えただけでは駄目で、そこに魂が入っていなければならない。別言すると仕組みとしての「体制」だけでなく、本質的な「態勢」を全社的に徹底・浸透させなければならないということである。
ただし、企業倫理プログラムが存在し、それを日頃から社内的に浸透させようとまじめに努力してきた企業と、そのような施策を全くしていないか表面的にこうしたプログラムを実施してきた企業が、同様の不祥事を起こした場合には、おそらくは世間の反応は異なったものになってくるであろう。アメリカでは連邦量刑ガイドラインという組織不正行為に対する懲罰的罰金の軽重を裁定する指針があり、企業倫理プログラムのしっかりしている組織の不正行為については最大で80分の1の罰金軽減措置がなされる仕組みになっている。日本でも量刑ガイドライン的なシステムを構築しようと提案している向きもあるが、現行刑法の体系も裁判制度もそのようなシステムを許す余地はなく、行政処分の軽重に反映させるのがせいぜいであろう。
3 企業倫理は不祥事対応か?
企業倫理やコンプライアンスの制度は今のところ唯一のレピュテーション・リスクに対する対応策であるが、企業倫理は企業の不祥事対策であると考えるのは一面的な見方である。そもそも不祥事という言葉は、「アンラッキーなこと、不運なこと、偶然降りかかった災難」といった意味の言葉である。そこには皆同様の不正行為をしているのに、自分のところだけが不運にも、とがめられ、批判され、恥をかかされ、結果としてブランドに傷を付けられたといった意味合いが言外に含まれている。ちょうど、スピード違反のねずみ取りに引っかかって罰金を払わされた人に対して「お気の毒でした」といって慰めるような捉え方といってもよい。
不祥事をそのように捉えると、そこには自分たちがしてきたことに対する本質的な反省が薄いために、将来へむけての改善もなければ積極的な改革も生まれてこないということである。このような考え方では、不祥事にうまく「対応して、乗り切る」といった対症療法的な組織防衛論につながってしまう。日本企業の不祥事会見を見ると、そのような認識で出席しているとしか思えないような態度での「お詫び」が多いのはそのためであろう。もちろん日本の企業不祥事を細かく調べていくと、そこには政治的な背景があったり、理不尽な要求、マスコミの誇張など様々な「事情」があることもよくよく承知しているつもりである。しかし、そうした事情を勘案した上でなお、本質的かつ誠実な反省をしないなら、組織の体質は変わらず、同様の問題が再発することは不可避なのである。日本には「臭いものに蓋」ということわざがあるが、「臭いにおいは元から断たなきゃ駄目」なのであり、不祥事の直後こそ、それまではできなかった元凶にメスを入れて、膿を出し切る絶好の機会でもあることを忘れるべきではない。
4 企業倫理とブランドの積極的な意味
ここまで話を進めてくると、企業倫理とブランドの関係のより積極的な側面が浮かび上がってくるのではないかと思う。実は不祥事が起こると、社会や消費者の目でみて、その企業のブランドが失墜するだけでなく、内部の従業員達の士気も低下したり、連携がバラバラになったりすることが知られている。逆にいえば、ブランドが信頼の証というのは顧客や社会に対してと同様、社員に対してもいえることであり、良いブランドに対する誇りと信頼が良い従業員を育てるとも言えるのである。
企業倫理の目的は企業経営の倫理化、すなわち企業を倫理的に善くすることにあるのだから、善い企業のために良いブランドを活用することもできよう。実際、企業倫理プログラムを導入しようとする企業は、不祥事を起こした企業ばかりではない。ある企業では同業他社との合併を契機に、企業倫理プログラムを取り入れることにした。競争を勝ちぬくための戦略的提携であり相互に補強しあうwin-winの合併のはずであった。社名やロゴマークを一新したものの、ついこの間までの商売敵が合併したとあって、社内にはわだかまりや不安が渦巻き、仕事に集中できない雰囲気があったそうだ。また他のある企業では合併に合併をかさねて大きくなり、グループ傘下には150を越える企業が所属することとなり、事業も複雑多岐にわたるためにそのプラットフォームとなる価値理念の共有が緊急の課題となった。自分達は何のために、何をする会社なのかがあやふやになり、誰も自社のアイデンティティーが分からなくなったという。さらに外国の企業と提携していく中から、企業倫理プログラムを構築する企業もある。文字どおり文化の違う企業同士が一緒に仕事をしていくわけであって、ここでも相互に同意できる共通の理念や価値観がなければ仕事など一緒にやっていけるはずもない。
こうした事態はわたしたちのまわりで最近日常茶飯事になってきているが、考えてみるとそれは大変なことである。わたしも含めて大学にいる人間は、三井と住友が、東京三菱とUFJが、日産とルノーがなどと傍観者的に気楽に企業合併について語っているが、それは丁度東京六大学が合従連衡して、慶應義塾と早稲田が合併するようなものでもある。もしそのようなことが起きれば当然組織のアイデンティティーが問い直され、伝統や理念の継承と同時に新たな方向性と価値観が求められなければならない。
二十世紀後半から始まった、こうした企業環境の激変が最近の企業倫理や価値理念の再評価につながった一因であるとわたしは思う。企業倫理の重要性はこうした組織運営の基礎となる価値観の共有という点にあって、むしろそちらのほうが不祥事対策より重要であろう。
5 変革期におけるブランド構築 ―価値共有とリーダーの役割
約束の紙数も迫っているので結論を急ごう。いろいろな企業の倫理プログラム構築を見てきた経験から述べると、企業を取り巻く環境が激変する時こそ、組織内部のアイデンティティーや価値理念がしっかりとしている必要がある。これは基本的な組織の方向性と態勢、成員の社会的責任感と使命感などにかかわってくることである。そのようなことがはっきりしていないと、現場にいる従業員は組織の一員として存分に能力を発揮することができないばかりか、士気も低下して、不祥事の種になるようなこともおきかねない。ある意味では企業倫理が問題にしている倫理とはこうした組織行動の連帯責任を、どのように考え、どのように管理し、どのように実行するかということにつきるのである。
その際、リーダーシップの重要性も強調しておきたい。企業倫理プログラム導入を成功させるためには、経営トップが本気の姿勢を示すことが重要であり、トップが腹をくくらなければ、この種のプログラムは社内で上手く機能しない。社員はトップの発言や姿勢をみて、それについていくからである。わたしはいくつかの事例に参与する中から、経営トップや組織の長は、こうした大局的な方向性を熟慮した上で決断し、組織をその方向へ導くことのためにのみ存在するといってもいいのではないかと考えるようになった。「組織の長はその組織の顔」といわれるように、トップはブランドの人格的体現者なのである。そしてそのような大局的な見方を養い、そのように振舞うためには、学問的素養が必須であることはもとより、我田引水の誹りを恐れずに述べると、経営トップになる人には、哲学や倫理に沈潜する時期がどうしても必要であるとわたしは思う。
ある企業の行動憲章には、「わたしたちが大切にしていること」が列挙されている。価値とは畢竟「わたしたちが大切にしていること」であり、普遍的なものも在るだろうが、一人ひとり大切にしていることは違っていて当然である。企業の場合にも、安全な製品や良いサービスの提供をはじめ顧客満足や株主への責任、取引先や従業員の福利、地域社会や環境への配慮など様々な項目がそれぞれの企業の考え方に従って、個性的に提出されていてほしいと思う。決してそれはどこかの団体がひな型として提示した基準の焼直しであったり、法令や規格を基にした行動のマニュアル化であったりしてほしくない。ブランドも倫理も表面的に見せびらかすためのものになった瞬間、その意義は失われてしまうものであり、その意味ではintangible で、目に見えない何かのままにしておくほうが良いとも言えるのである。


参考文献

  • Baranoff, Etti. Risk Management and Insurance. Hoboken,NJ : John Wiley & Sons, Inc., 2004.
  • Paine, Lynn Sharp. Value Shift: Why Companies mustMerge Social and Financial Imperatives to Achieve Superior Performance. New York: McGraw-Hill, 2003.
  • 『ハーバードのケースで学ぶ企業倫理:組織の誠実さを求めて』リン・シャープ・ペイン著、慶應義塾大学出版会、1999年。

三田評論 2005年3月号(No.1077)より転載)

梅津光弘(うめづ みつひろ)
慶應義塾大学商学部准教授
応用倫理学、企業倫理学専攻。1957年生れ。慶應義塾大学文学部卒業、シカゴロヨラ大学大学院博士課程(企業倫理学)修了。Ph.D.各企業ごとに多様な企業倫理やCSRの方針があるべきという持論のもと、これまでに百社以上の事例を調査・分析し、ケース教材にまとめている。現在は企業の倫理委員などコンサルティング業務にも多数携わっている。
著書に『ビジネスの倫理学』、訳書に『ハーバードのケースで学ぶ企業倫理』、『企業倫理と経営社会政策過程』、『企業倫理』、『企業倫理学(2)』など。
慶應MCCプログラム「ケースメソッドで学ぶ企業倫理」を担当。

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