今月の1冊
2013年03月12日
新庄 耕『狭小邸宅』
「三つ子の魂百まで」と言います。小さいころの性格や性質は、年をとっても変わらないという意味のこの言葉、社会人としての成長にも当てはまるものだなあと思うことがあります。社会人に成り立ての時の経験は、その後の職業人人生に大きく影響をもたらすものだ、と常々感じています。
現在は慶應MCCにてラーニング・ファシリテーターの職をしていますが、これ以前にもいくつかの会社に所属しました。私自身にとってのキャリアのスタートは、30人ほどの小さな会社の広告営業マンからでした。
最初の会社では、社会人の「ド」基礎から教わりました。遅刻をしないという最低限のことから、あいさつの仕方、正しい言葉の使い方、相手を不快にさせないこと…などという、大学生までにすませておくべきことだらけですが、職業人となるために、身につけなくてはならないことを、からだで学んだ時期でした。果たしてまともに身についているかはわかりませんが…なんとか社会人として勤められているのは、この時の経験が礎になっているのだと感じています。
2月に発売されたばかりの小説、新庄耕さん作の『狭小邸宅』。平成24年度のすばる文学賞受賞作です。小説好きの知人が勧めてくれたこともあり、手にとってみました。主人公は、中堅の不動産屋の営業マンである松尾。特に目的もなく、なんとなく就職した先の不動産で仕事に苦しむ毎日。連日の残業、休日を返上しても家を売ることができず、上司に罵倒され続けている主人公の姿は、自分自身の新入社員時代を思い起こさせるものでした。
私も営業担当であったので、何よりも仕事を頂くことが中核業務でした。新規の電話営業でアポイントを頂き訪問をする、行く先が無ければ飛び込み訪問を行う毎日でした。同期の営業メンバーと話をすると、都心にある高層ビルのほとんどは、たいてい一度、訪問歴があったことを思い出します。時代の要請もあり、今ではこのようなスタイルはスタンダードではないかもしれませんが、多かれ少なかれ、営業を担当されている方はこのような経験を通して成長していらっしゃるのではないかと思います。
作品の中に豊川課長という人物が登場します。怒号によって社員を従わせるマネジメントが中心の会社の中で、常に落ち着き払い、淡々としている豊川課長。営業成績はトップクラスであり、作品の中でも異彩を放つ存在です。豊川課長が冷徹に、主人公の仕事の仕方について指摘するシーンがあります。
「何で自分が売れないか真剣に考えたことがあるか」
主人公はそれまで、動機の弱さや自分の資質にばかり目を向けていたものの、次に続く言葉で仕事の仕方を見直すようになっていきます。
「お前はやはり営業マンに向いていないのかもしれない。だが、向いているいない以前に、営業マンとしてやるべきことがやれていない。(中略)まずは覚えるべきことを覚えろ、難しいことなんて言っていないんだ。」
主人公は、この言葉以来、仕事の在り方を見直していきます。課長が口癖のように覚えろと言う、三つの事に意識するようになっていきます。道路、物件、そして物件をあけるための鍵の暗証番号を覚えること。太い幹線道路でなく、物件に続く路地を覚えること、提案する物件の概要を覚えること、そしてスムーズに案内が出来るように鍵の暗証番号を覚えること。この三つを覚えることで、主人公の仕事ぶりが変わっていきます。
「たった三つのことを覚えるだけで、見える景色は変わった。細かな道がわかるようになると、単に営業の効率が上がるだけでなく、頭のなかに詳細な地図と街のイメージがすぐに浮かべられるようになった。物件と鍵が頭に入ると、物件の概要や特徴がイメージに付随して結びつき、それぞれ物件固有の貌(すがた)が立ち現れた。不動産の営業をしていることに変わりはなかった。にもかかわらず、少しずつ肌に接する世界が異なる貌を見せていく感覚は新鮮だった」
観念でなく、行動の積み重ねによって成長していくこと、ひとつひとつの仕事の積み重ねが自信を産んでいく有様は、仕事で成長することのモデルをみせられたようで、深い共感を覚えました。
自分自身の仕事経験を思い起こすこととなり、果たして今の自分はやるべきことをやっているのだろうか、と思うきっかけになっています。同時に、あの頃の必死さで仕事に向かい合っているだろうか、と自問自答をしています。
松尾が三つのことを覚えろと言われたように、私も三つのことを繰り返し教えられました。毎日、朝礼で唱和していた整理整頓、時間厳守、正確迅速。具体的な行動では、あらかじめ準備をしておくこと、約束の時間には遅れないこと、丁寧に、かつすぐにやること。必ずしも100点満点でないものもありますが、思い起こしてみると今では無意識に気をつけていることであり、今の私の、仕事の筋肉になっていると感じています。その当時は、小学校の標語のようで、いい大人が毎朝唱和することなのか…と考えていたものですが、唱和をし、仕事のたびに何度も伝えられ、意識しながら行動することで、いつしか身にまとう能力になっていったようです。
日々の習慣が、その人を知らないうちに変えていく。大切な行動を習慣化することは、成長実感を失いやすいと言われる30代を迎えている自分にも必要なことなのかもしれません。そんなことを、小説を通して考えました。
小説の結末は、この時代に働くとはどういうことだろう、と考えさせられるものであり、最後まで読むことで、働くことの難しさや不安が呼び起こされる内容です。著者の新庄氏はなんとこの本がデビュー作とのこと。これからの作品を楽しみにしたいと思います。
(調 恵介)
『狭小邸宅』集英社
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