今月の1冊
2013年09月10日
平野 真敏『幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語』
魅惑の装丁である。
ドイツ南東部の都市パッサウを流れるイン川のほとりから、マリーエン橋越しに対岸を仰ぐ。もし後ろを振り返ることが出来るならば、聖シュテファン大聖堂が聳えていることに気付く筈だ。ペールブルーの空が地平線にかけて白いグラデーションを描く中、チェロのように大柄な楽器がすっくと屹立している。
裏表紙は一転、漆黒の闇の上に浮かび上がる楽器の肢体だ。所々ニスの剥げた表面の細かい傷が、刻んだ歴史を語りかけてくるようである。
帯のコピーは、【ワーグナーに愛されながら、「消された」楽器の秘密】。これは、手に取らずにはおられない。
読み始めたら途中で止められない、極上のノンフィクションミステリーをご紹介したい。
著者、平野真敏氏は、世界に二人しかいないプロのヴィオラ・アルタ奏者である。
音楽家はその芸術的才能を時にマルチに発揮させるものだが、この処女作もその典型と言えるだろう。楽曲に見立てたような章立てと奥深い表現の中に、フックの効いたエピソードが効果的に散りばめられ、読者は恰も著者と同化して謎解きをしているかのような感覚に囚われる。
ヴィオラ・アルタは、「音楽大事典」(平凡社)に次のように紹介されている。
1872~75年ドイツのH.リッターが考案したヴィオラの改良機。(中略)ヴァーグナーやR.シユトラウスもこの楽器を賞したが、大型で扱いに不便なため一般化しなかった。(本書34頁)
この楽器が、平野氏の相棒となるまでの過程を時系列で整理すると、偶然という言葉では片づけられないような必然性を感じる。楽器が彼を選んだとしか思えないのだ。
- 30年以上前のオークションによって、ヴァイオリン製造で世界的にも著名な木下多郎氏(木下弦楽器株式会社社長)に競り落とされる。
- 船便(その他大勢扱い)にて木下弦楽器に到着。
- 店のディスプレイとしてショウケースに飾られる。
- 1983年、当時ヴァイオリニストだった高校時代の平野氏と出会うが、関心すら寄せてもらえず。
- 2003年、専門をヴィオラに替えた著者が、久しぶりに来店。先客だった子供の、「こんなに、小さなチェロがあるよ」という言葉をきっかけに、遂に彼の目に留まる。
- 同日、講演会の企画に行き詰っていた彼によって借り受けられ、プチプチに梱包され持ち帰られる。
- 数日後、講演会で初披露され、好評を得る。
木下氏の慧眼、子供の一言、講演会のタイミング、観客の反応、そして著者の探求心の一つでも欠けていたら、この楽器が陽の目を見ることはなかったであろう。
各地の演奏会で常に高い評価を得たヴィオラ・アルタの覚醒を、純粋に喜んでいた平野氏は、次第にこう思うようになった。
なんとも不憫な存在ではないか。なぜ、これほど人に愛される音を持ちながら、誰も弾く人がいなくなり、迷子になっているのだろうか。(本書39頁)
こうして、ヴィオラ・アルタのルーツを探るミステリーツアーがはじまるのである。
そして、それは同時に、氏自身が改めて音楽と対峙し、深く内省するための旅でもあった。
日本で最初に奏でられた西洋楽器は、ヴィオラの原型である「リラ・ダ・ブラッチョ」であったと言われている。その時の様子は、遠藤周作の遺稿『無鹿』(1997年)に詳しい。
大友宗麟が日本人としてはじめて西洋音楽を聴いたのは豊後の府内(現・大分市)に宣教師トルレスや修道士アルメイダたちが建てた教会を訪れた永禄五年秋のことである。(中略)数人の日本人少年がヴィオラを持って食堂にあらわれた。彼等は修道士サンチェスからこの弦楽器と歌とを一年前から習っていた信者の子供たちだった。(中略)はじめて耳にした西洋音楽の美しさは宗麟の胸底にしみ通ったらしい。彼はこの時、ムジカなる言葉を憶え、それをいつまでも忘れなかった。(遠藤周作著『無鹿』文藝春秋18~19頁)
後に宗麟は、領内の一部に短期間ながらキリスト教の理想郷を打ち立てることになるが、余程印象が強かったのであろう。その場所を「無鹿=ムジカ(musica)」と名付けた。(注1)
演奏会で大分を訪れた著者は、このエピソードを聞き、宣教師達が奏でた音に思いを馳せる。
ヴィオラ・アルタが、ひとつの器として受け入れられていくには、大友宗麟の心を動かした「ムジカ」のように、その音にこめられた思いを、まず人々に届けなければならない。(本書74頁)
ヴィオラ・アルタが採用されていた19世紀後半、リストやシュトラウス、パガニーニといった巨匠達は、どういう思いを楽曲に込めていたのであろうか。
彼は、そこに故郷のフォルクロア(原風景)の匂いを嗅ぎ取る。
遥か東方の日本で、そうした音楽に向き合うためには、演奏者も自分自身のフォルクロアを意識しながら、ぶつかっていかなければならないだろう。(本書110頁)
そうして模索した答えのヒントは、現在住んでいる浅草にあった。下町の情緒と魅力的な人々との出会いによって、音楽家としての原点、フォルクロアを再認識した平野氏は、ヴィオラ・アルタを後世に引き継ぐための静かな覚悟をするのである。
過去を遡る謎解きも、次々と新たな展開を見せる。
楽器の中のラベルを解析し、ドイツの工房から専用ケースを入手し、ニューヨークの書店からリッターの著作を取り寄せ、オーストリアに住んでいるヴィオラ・アルタ奏者からのメールに小躍りする。
情報を手繰り寄せたら、次はそれを検証するための行動だ。
意図的に隠されているわけではないのに、なぜか語り継がれていない事実が、クロアチアで、そしてドイツで、次第に明らかになっていく。地元の人々との何気ない会話が閃きのきっかけとなるなど、芸術家である著者の豊かな感性を感じさせる場面も多い。
ヴィオラ・アルタは、複数集まると共振・共鳴のような低い唸りをあげるという。
2010年7月31日。オーストリアの教会で、本楽器のもう一人の弾き手であるカール・スミス氏との二重奏を果たした平野氏は、音楽の宗教性にもつながる、ある仮説を思いつくのであるが、その大団円の結果は、ぜひ皆様ご自身で確かめていただきたい。そして、読了したらもう一度表紙に戻ってほしいのだ。
感動冷めやらぬ中、大聖堂を出てきた彼が最初に見た光景が眼前に広がる。その瞬間、著者と読者の視線や思いが一体化するのである。
歴史の闇を模索する過程で解き明かされていく事実は、哀しくも残酷である。政治や社会の枠組みの中に組み込まれてしまった結果、ひっそりと消えていったヴィオラ・アルタの運命を辿りながら、氏は音楽自体の普遍性、永遠性を実感する。
二十一世紀の今、あらためて、無心にその響きを受け止めて欲しい。そうすれば、この楽器には必ず、それだけの価値があることを、誰もが認めてくれるのではないか。(本書188頁)
ヴィオラ・アルタの伝道師となった平野氏は、この楽器と共にどのような高みに登っていくのであろうか。氏の今後の活躍と共に、平和を謳歌するこの深く明るい音色が、きな臭くなりつつある世情を少しでも緩和してくれることを期待してやまない。(注2)
注1:2011年に宮崎大学教育文化学部の菅邦男教授が「無鹿=カラムシ説」を発表しているが、本稿では従来からの定説に準拠した。
注2:youtubeで「viola alta」と検索すると、平野氏の演奏映像が見られる。
(黒田 恭一)
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