2014年04月08日
アーレント的「思考の作法」
『今こそアーレントを読み直す』仲正昌樹; 出版社:講談社現代新書; 発行年月:2009年5月; ISBN:978-4062879965; 本体価格:799円
「映画『ハンナ・アーレント』どこがどう面白いのか 中高年が殺到!」
こんな週刊誌の見出しを見かけたのは昨年末のことである。
1960年代初頭、何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが、逃亡先で逮捕された。
ナチスの強制収容所から脱出し、アメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人の女性哲学者ハンナ・アーレントは、イスラエルで行われたアイヒマンの裁判に立ち会い、雑誌「ニューヨーカー」にレポート発表。その衝撃的な報告が世間から激しいバッシングを浴びた。という史実を描いた映画である。
岩波ホールをはじめとしたミニシアターでしか上映されていない映画に「中高年が殺到!」というコピーはややミスリードだが、単館系でかかる社会派映画は、どこも閑古鳥が鳴いているご時世にあって、画期的なヒットであることは間違いないようだ。
3月後半に、私が二度目の観劇をした下高井戸の名画座では、通路に座布団席まで作られていた。中高年だけなく、学生や20~30代のカップルまで満遍なく入っていた。
ハンナ・アーレントの何かが人々を惹き付けている。それはいったい何だろうか。
アーレントの著作は読みづらい、というよりも一般読者を拒絶しているに等しい。
出世作の『全体主義の起源』は三部作の大著で、映画の題材となった『エルサレムのアイヒマン』も四千円の単行本しかない。文庫化されている何冊かの本も、いずれも超弩級の難解さである。
アーレントを知るための良質のガイドブックが欲しい、と探して見つけたのが本書であった。著者の仲正氏は、序論で本書の狙いを次のように書いている。
本書は基本的に「分かりやすい政治思想」あるいは「分かったつもりにさせる政治思想」を拒絶しながら「討論」し続けることの重要性を説いた政治哲学者である(と私が考えている)アーレントの思想を紹介する本だと考えてもらっていい。
私は、この本をアーレント的な「思考の作法」を紹介してくれる本として読んだ。
アーレントが、1960年代のアメリカで発した予言が、日本で現実化しつつある恐ろしさを仲正氏は感じている。さらにいえば、仲正氏がこの本を書いた五年前よりも予言の現実化は深刻になっている。
一億総中流化の幻想が崩れ去り、経済格差は広がり、雇用・年金・医療・介護といった基本的社会インフラが崩壊しかけている現代の日本。わかりやすい答え、すべての問題を一発で解決してくれる美しい物語への希求がひどく高まっている。
だからこそ、アーレント的「思考の作法」が求められている。
アーレント的な「思考の作法」とは次のようなことである。
◆分かりやすい答えを求めることではなく、考え続けること
人間は分かり易さに慣れ過ぎると、思考が単純化し、複雑な事態を複雑なまま捉えることが出来なくなる。
二項対立の両極いずれかに偏ってはいけない。その中間にも道はないかと探し続ける努力が必要だ。分かりやすいことが、必ずしも善ではない。
◆答えはひとつではないことを認識すること
混迷期には、決まって強いリーダー待望論が沸き起こる。
終わりなき対立を繰り返すことに疲れた人間は、さまざまな問題を一挙に解決する「答え」を提示してくれる英雄を待望する。
しかし、誰が提示する答えが一番ましで、信用できるかという問題ではない。
現実に対する答えはけっしてひとつではない。
◆多様な他者と関わり合い、影響を与え合うこと
人間は、多様な他者とコミュニケーションを通して関わりあい、影響を与え合うことで、複眼的な視座をもち、他者との対比の中で自分のモノの見方、考え方を構築することができる。他者との相対の中でこそ、自分らしさを見つけることができる。
◆人間の負の側面から目を背けないこと
人間は生まれながらにして自由な意思を持ち、自律的で、自らの理性を発揮して善を求める存在であるという西欧近代的な人間像は必ずしも正しくはない。
人間は、臆病で、無責任で、受動的な存在でもある。
安易な人間賛歌に酔ってはいけない。
アーレントがエルサレムで見たアイヒマンは、誰もが想像したような怪物的な悪の権化ではなかった。
考える主体であることを放棄し、従って誰か他の人の立場に立って考える能力が欠如した、ひたすら命令に忠実な小悪人でしかなかった。
そんなどこにでもいる陳腐な人間が、歴史的大犯罪を引き起こしたのだ。
アーレントは、その姿を「凡庸なる悪」と評した。
アーレントの代表作『人間の条件』には、人間であるための基本的条件が示されている。
labor(労働)、work(仕事)、action(活動)の三つである。
labor(労働):生きるために働くこと
work(仕事):何かを創りだすこと
action(活動):多様な他者とコミュニケーションを通して関わりあい、影響を与え合うこと
アーレントは、人間であるための条件として、最も重要なのは、最後のaction(活動)だと言っている。
「自由な意思を持ち、自律的で、自らの理性を発揮して善を求める存在である」という人間の本質は、生来のものではなく、action(活動)を通して、つまり他者との能動的な関係性によって獲得できるものだとアーレントはいう。
labor(労働)やwork(仕事)だけで、action(活動)がないと、言われたことを忠実に守ることを絶対視するアイヒマンのごとき「凡庸なる悪」に、人間は陥ってしまう。
誰もが、アイヒマンになる危険性を持っているのだ。
お気づきかもしれないが、実は、アーレントは随分と厳しいことを言っている。
人間は、生まれながらにして人間になるのではない。困難な問題を真正面から受け止め、ひたすら考え、他者とコミュニケーションを通して関わりあい、影響を与え合うことを通して、人間になっていくのである。
舞台の上の役者が与えられた台本に従って役割を演じるごとく、社会という舞台の上で、人間という役割を演じることで、はじめて人間になりうるのだ。
ヒューマニズム=人間らしさというのは、そういうことなのだ。
社会という舞台の上で、人間という役割を演じる人を、「善き市民」と言い換えてよい。
「善き市民」は、無理をしてでも、精一杯がんばって演じるべきものなのだ。
生身の人間、剥き出しの人間は、誰もが闇を抱えている。
自分の内なる闇を晒しだすことを、「本音で生きる」「ありのままで」といって褒めそやす風潮があるが、とんでもない。闇は闇として、静かに抱えて生きていかねばならない。
闇を安易に晒していると、公/私の境界線がどんどん曖昧になる。
action(活動)には、当然のことながら責任を伴う。無責任な思いつき、公/私の区別のない匿名本音トーク、野次馬的な場当たり発言を一方通行でぶつけ合うことは、action(活動)とは似て非なるものだ。
ネット社会は、アーレントが理想とした、何者にも束縛を受けない自由な言論空間だと期待されていた。しかしながら、21世紀の現実はその真逆の方向に加速しつつある。
極限までパーソナライズされた検索エンジンは、自分の見たい情報、心地よい世界だけを選別して提示してくる。
ネット社会は、ワールドワイドな画一性のメカニズムで出来ている。
民主党政権への期待と失望、ハシズムへの熱狂と反発、アベノミクス、ネトウヨ・タロー族現象etc
日本は、「わかりやすさ」「わかったつもり」が蔓延している。
いまこそ、アーレント的な「思考の作法」が必要である。
映画『ハンナ・アーレント』を観るために小さな映画館に並ぶ人達を突き動かすのは、そんな漠然とした不安ではないだろうか。
追記
映画『ハンナ・アーレント』は全国のミニシアターで順次公開中である。
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/theater.html
この拙文を書いている最中にアーレントの伝記が刊行された。
『ハンナ・アーレント-「戦争の世紀」を生きた政治哲学者-』矢野久美子 中公新書
彼女の波乱の人生を知るとアーレント的な思考の背景がよく理解できる。
アーレントの原典にあたって、ガツンとやられたいという人は
『人間の条件』志水 速雄 (翻訳) ちくま学芸文庫
が入手し易いようだ。ただし読み易いかどうかはわからない。
(城取 一成)
『今こそアーレントを読み直す』仲正昌樹(講談社現代新書)
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