今月の1冊
2017年12月12日
『地下水路の夜』
「新しい知識を得た。少し利口になった。でも、それだけではつまらない。些細なことでもいい、どんな方向でもいい、そこからもう一歩、あなた自身のクリエイティビティを」
阿刀田さんは、慶應丸の内シティキャパスで、成人を対象とした教養講座agora(アゴラと呼んでいます)の講師を務めています。この『地下水路の夜』が『小説新潮』誌に連載されていた頃も講座を開催中で、最新号を読んでは教室で感想を語り合いました。
阿刀田さんは皆さんご存じの通り、短編小説の名手であると同時に「知っていますか」シリーズとして知られる、古典の名ガイドです。アゴラ講座はまず、旧・新約両方を取り上げる「聖書を知っていますか」から始まりました。そして私は当時から阿刀田さんの講座の企画・運営を担当しています。
私たち日本人が欧米理解を試みるとき、その思考や価値観の根底にある、キリスト教の基礎知識が欠かせません。信仰とはべつに、歴史として、教養として「旧約・新約聖書」を学びたい。その思いを快く受け止め、応えてくれたのが阿刀田さんでした。
さすが名ガイドです。阿刀田さんが解説すると、ただただ難解に思えていた聖書が、とにかくよくわかり、面白いのです(事務局である私も聴講、参加しています)。さらに阿刀田さんは、博覧強記な一方で、とても寛容。私たちのどんなつたない質問・疑問にも答え、それぞれの好奇心や探究心にどこまでもつきあってくれます。そうするうち受講生の興味関心も広がり、講座はギリシャ神話、古事記と続き、やがて阿刀田さんの専門である短編小説を読むことになりました。
講座では毎回、阿刀田さんが選んだ小説を全員が読んできて、前半に作品や背景に関する阿刀田さんの解説を聞きます。後半は、阿刀田さんも交えて全員で感想や意見を語り合い、講座終了後は各々、感想レポートを綴り、互いの感想を読み合います。
「どんなことでもいい。どんなに短くてもいい。とにかく感想を書くこと。書くこと自体があなたのクリエイションの第一歩」
これが講座のモットー。そして私たちはそれをつぶさに実感しました。
阿刀田さんが選んだ各回の短編小説は多彩で個性的。ですから好みはわかれます。楽しめたかそうでもないか、好きか苦手か、どんなところに重きを置いて読んだか、どんなことがいちばん印象に残ったか、読み方・楽しみ方は人それぞれ。同じ場面についても感じ方は多様で、他の人の視点や感性からもまた新たな発見があります。そして阿刀田さんは、どんな感想や突拍子のない反応も受け止め、応援してくれました。包容力あり辛抱強いガイドのおかげで私たちは、小説を自分なりに読むというクリエイションを楽しめるようになりました。
この『地下水路の夜』は、まさにこの講座の最中に『小説新潮』誌に連載され、一書となり、このたび文庫となりました。ですからこの本のページを捲りながら、当時の阿刀田さんの言葉を思い出し、あらためて受け止めることがいくつもありました。
皆さんは、十二作品のうちどの作品がお好きでしょうか。私はまず、冒頭の「たづたづし」に、特にタイトルの美しさに惹かれました。言葉の響きも、朧な意味も、主人公の中での存在感も、「たづたづし」には美しい余韻が漂っていて魅力があります。
主人公の絹子は大学で『源氏物語』を教える女性です。友人のひとりにいそうな感じで、同性として共感する部分もあれば、自分だったら違うなあと思う点もありました。そんなふうに絹子に親しみをもって読み進んでいくと「えっ」・・・・・・驚きました、絹子が急に光源氏と重なるのです。源氏の恋愛物語がふわっと肌感覚として感じられ、どきっとしました。そして、これまで難しくて遠い古典の世界だった『源氏物語』に新鮮な興味がわきました。
表題作「地下水路の夜」は、記憶と空想、現実が入り交じり、不思議な感覚で読み終える作品です。阿刀田さんの短編小説は“奇妙な味”と呼ばれていますが、まさに本作がそう。主人公の少年時代に始まり、彼の経験や思い出を通して、私たち読者は本、紙、言葉をめぐるエピソードをたどり、たびたび異空間に迷い込みます。思い出にしてはあやふやな記憶。夢にしてはなまなましい体験。私たち誰もが覚えのある感覚ではないでしょうか。絶妙に入り組んだそれらを自由存分に味わうのも、大人の読書の楽しみと感じました。
次に「頭のよい木」。私がいちばん好きな作品です。アイデアをくれる二本の“木”を中心に、考えることの面白さや不思議さが描かれています。まっすぐに自分なりのアイデアを探る主人公の姿勢や、信じるかどうかより「ふーん。おもしろい」と試してみる好奇心は、阿刀田さんに似ているなと思います。
ピタゴラスの定理、スタンダールの墓碑、哲学者パスカルの言葉・・・本作にはそんな知識がちりばめられていて、知的好奇心をくすぐります。なるほどと感心したり、もっと知りたくなって調べてみたり、自分だったらどうかなと考えてみたり。小説にさりげなく溶け込んだ知識が知的探求へと誘うしかけは、他の作品にも見られ、阿刀田作品の大きな魅力のひとつとなっています。
そしてさいごの「言葉の力」。主人公は酔って道に迷い、酒場にたどり着きます。それも度々。「なにか、お困りのご様子ですね」バテンダーは見抜いて声をかけ、さらには、そのときどきに合ったアドバイス、そっと背を押すメッセージ、“一言”をくれます。主人公は不思議に思いながらも、これが言葉の力なのかな、と受け止めます。
「先生はどのように小説のアイデアを思いつくのですか」あるとき講座で質問がでて、阿刀田さんが自身の創作の作法を種明かししてくれたことがありました。アイデアの見つけ方、アイデアを飛躍させる方法、知識をクリエイティビティにつなげるコツなど。その中で阿刀田さんが「知識が豊かでなければアイデアは生まれにくいが、その知識も脳味噌の中にほどよく泳いでいて、ご用のときにスルリと役立ってくれるものではなくてはいけない」と説いたのを思い出しました。主人公はもしかしたら意識と夢の間にいて、自分の頭の中で“ほどよく泳ぐ”知識や経験と対話をしていたのかもしれない、と私は思います。
いつごろからなのでしょうか、私たちが、自分の考えはささやかなものだと思い込み、他者と違うのではと心配ばかりするようになるのは。かく言う私もそうでした。そんな私たちに、作品を介して阿刀田さんが語りかけてきます。
「どう読んでもいい。どう楽しんでもいい。それが立派に皆さんのクリエイションなのだから」
私たちの知的好奇心をくすぐり、感情をゆさぶり、奇妙な感覚を楽しませながら、読者が気づかぬうちにクリエイションへと導く。阿刀田さんはやはり、名ガイドです。
(湯川 真理)
『地下水路の夜』(新潮文庫)
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