今月の1冊
2021年01月12日
伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか 』
「今日、肩に小鳥を乗せて、おじいちゃんが散歩から帰ってきたよ。」
そう祖母が笑っていたのは、もう20年近く前のことだろうか。脳梗塞を患った祖父は、一命はとりとめたものの、後遺症として大きく視野が欠けていた。その日、散歩に出かけた祖父は、どこからか逃げてきた小鳥が、いつからか自分の肩に止まっていたことに全く気がつかなかったらしい。いいな、肩に小鳥を乗せて散歩してみたい!幼い私はそう思ったが、これも見えないからこその技だっただろう。
人が得る情報の8割から9割が視覚に由来するということは、多くの人が聞いたことがあるだろう。しかしこれは、裏を返せば目に依存しすぎているともいえる、と『目の見えない人は世界をどう見ているのか 』の著者 伊藤亜紗さんはいう。
本書では、「見る」ことを問い直す身体論が展開されている。視覚障害という特性を持った方やその関係者に対して、著者の伊藤さんが行ったインタビューや、ワークショップ、さらには日々の何気ないおしゃべりから、目が見える伊藤さんが捉える「世界の別の顔」が紹介されている。「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」と、章ごとのテーマに沿って、見えない人がどのように世界を見ているのか、伊藤さんが一般化した解説のひとつひとつに、なるほど~と読み進めた。
「〈見えない〉ことは欠陥ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること。」
これは生物学者 福岡伸一さんの言葉だが、本書を読み進めると、私が日頃目に頼るあまり、いかに「世界の別の顔」を見逃しているかを感じた。そして、自分の体が持っている可能性のほんの一部分しか使っていないことにも気づいた。
例えば、著者が目の見えない木下さんと大岡山駅前の坂道を下っているとき、木下さんから「大岡山はやっぱり「山」なんですね」と言われたことがあるという。見えているとただの坂道も、「足もとの斜面」と「地名」という限られた情報を結びつけることによって、木下さんは駅を頂上に、目的地をふもとに捉え「山」という空間として捉えていたというわけだ。
見えない人は見える人よりも空間を大きく俯瞰的に捉えていることがあるという。目が見通すことのできる範囲を超えて大きく空間を捉え、視野を持たないゆえに視野が狭くならない、というわけだ。視点に縛られないからこそ、自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうである通りに球体の天体として思い浮かべたり、ウラ面の区別なく太陽の塔の3つの顔を全て等価に見ることができるという(あの万博記念公園の太陽の塔には、実は顔が3つあることも驚きだった)。
私たちは、見えることによって、かえってしばられているのかもしれない。すべての面、すべての点を等価に感じるというのは、なかなか難しい。視覚を通して理解された空間や立体物、はたまた物事やコミュニケーションすら、見えることで平面化してしまっているのではないだろうか。物理的には同じ空間、同じもの、同じ対象であっても、見える人と見えない人では、全く異なる意味を見出していること、その「意味」自体に、私は面白さを感じた。
さらに少し視点を変えてみると、見えない人は、情報量と言う点では限られているが、だからこそ、踊らされない生き方を体現できる場面があるようだ。私自身、情報過多ゆえに視野が狭くなっていると感じる場面がしばしばある。特に昨今の混乱の世の中では、日々目まぐるしく情報が流れ、入ってくる。時には情報をシャットアウトしたり、手放したり、選別しながら、持てるものを組み合わせ、立体的に考えようと改めて思った。
そこで思い出したのが「引き算のワーク」だ。前野隆司先生の講座『デザイン×システム思考-幸せなイノベーションを実現する』のなかで、観察について学ぶ一つの手法である。具体的には、「自分にとってなくてはならない大切なものを、一週間引いて(なしにして、使わずに)暮らしてみよう、そして、自分が何に気づくか観察しよう」というものだ。
一週間後、「物理的になくて不便でした、困りました、ハイ終わり。」ではなく、全員が様々な引き算と、それに伴う様々な気づき(インサイト)を持ち寄り、共有しあう。これが毎度とても興味深い。
- 目覚まし時計を引き算してみたら、目覚まし時計を使っていたとき以上に快適に起きられた。人間の本来の能力、自分の本能を発見した
- 妻が家事をやめてみると、夫は細かな家事(トイレ掃除では便器の掃除だけでなく床を拭く、タオルを替える等)についての理解が半端であることを共に理解できた
- “どうしよう”という優柔不断な思考を引き算したら、思い切って高額なオペラのチケットを買い、気になる女性を誘って、デートした(行動力がアップした)
引き算のワークは、当初の想定とは異なるインサイト(気づき)が強い実感を伴って得られる。毎回「異なるものを持った(持たない)自分」に変身することで、これまでその対象(物事や思考など)に対して思った以上に理解が狭く、柔軟性に欠けていたことに気づき、発展の道に近づくのがこのワークの意味だと感じている。
本書も、見えない人の世界を「見る」ための方法として、ただ見えない人が得ている「情報」ではなく、情報から見出している「意味」に注目することを大切に、まとめられている。想像ではあるが、本書を通して視覚を使わない体に変身してみることで、視覚には本当に目が必要なのだろうか、そもそも視覚ってもっと多様で流動的なものなのではないか、と思えてきた。
さて、今まで「目の見える私」と書いてきたが、実は私は極度の近視である。裸眼の視力は、0.05もない。視力検査の一番上のCは見えない。時折、自分の目が全く見えなくなったらどうしよう、という不安を感じることがあるが、本書によって「別の世界」をのぞくことができ、勇気が湧いた部分もあった。
「目が見える」「目が見えない」に限らず、この超高齢化・人生100年といわれる時代で、人と人が理解しあうために、今後ますます相手の身体のあり方を知ることも欠かせなくなってくるだろう。異なる民族の人とコミュニケーションを取るとき、その背景にある文化や歴史を知る必要があるように、これからは、相手がどのような体を持っているのかも、もっと想像してみようと思う。そして、その違いも楽しみながら、そこに生じる問題に考えを巡らせてみたい。
(米田 奈由)
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