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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

今月の1冊

2021年05月11日

旅行けば~銀座

銀座はもともと半島だったこと、ご存じでしょうか。
その名も江戸前島。日比谷入江に面した小ぶりな半島の先端にありました。徳川家康公が日比谷入江をどーんと埋め立てて、今の皇居や霞ヶ関のあたりからの地続きになさったそうです。
慶長17年(1612年)、徳川幕府が現在の中央区銀座に銀貨鋳造等を担った銀座役所を設置しました。新両替町という町名でしたが、通称「銀座町」と呼ばれ、呼び続けた結果の明治2年(1869年)、正式に銀座が町名となりました。

今回は慶應丸の内シティキャンパスにほど近いこの街を、買い物や観劇を楽しむ場所としてではなく、どのような発展をしてきたのか、どのような人々の思いで作られている街なのか、少し立ち止まって、いつもと少し違う観点から見つめてみたいと思います。

白坂亜紀さんと【人生を磨く銀座の美学】」講座で伺ったお話によると、江戸期、日本橋京橋から整備されて街が広がっていったため、日本橋は商業の発展が先行し、400年以上の歴史を誇る商店がいくつもあるそう。団扇(うちわ)の伊場仙さん、寝具の日本橋西川さん、和菓子の玉英堂さん…。「家康公と共に江戸に上がりまして」なんて口上を聞いた日には、恐れ入ってしまって御品に触れる手が震えるというものです。まぁ、団扇を持つ手が震える分には、これからの時期涼しくていいのでしょうけれど…。

一方、あとから整備された銀座は職人の街、ものづくりの街としてスタートしました。先述した銀座役所や塗料の製造所である朱座が置かれ、そこで働く職人や、彼らに生活用品を売る小規模商店の商人が生きる街だったのです。
しかし、明治期から少しずつ現在のような商業の街へと発展しました。商業の街ゆえか、銀座には商売繁盛を願うお稲荷さんがたくさん。木挽町の歌舞伎稲荷神社は白と朱のコントラストがきりりと鮮やかで、向き合えば気持ちがシャンとします。七丁目の豊岩稲荷神社は路地の朱壁を仄かに照らす灯ろうが非日常へ誘い、お狐さんのまなざしが肩肘に入りすぎていた力をふぃと抜いてくれるようです。その他にも沢山のお稲荷さんが路地の奥やデパートの屋上、ビルの一角にあり、銀座の街と人を見守り続けています。よろしければ「銀座八丁神社めぐり(銀座公式ウェブサイト「GINZA official」)をチェックしてみてくださいね。

さて、話を戻しまして、ものづくりの街として始まった銀座は、商業の街としてはやや後発だったせいか、銀座の旦那衆・女将衆は新しいものに取り組むフロンティア精神旺盛なタイプの方が多いそうです。

例えば、三丁目の煉瓦亭さん。明治28年(1895年)創業の洋食屋さんで、今のご当主の曾祖父様が「これからは日本人も西洋に負けないよう、西洋料理を食べなくては!」と、銀座の煉瓦街に一般庶民が気軽に入れるお店を構えられたそうです。当初はフランス料理店だったそうですが、日本人の嗜好にあわせて工夫を重ね、いわゆる洋食というジャンルの草分けとなりました。「トンカツの生みの親」「オムライス、メンチカツ、牡蠣フライをはじめたお店」等の二つ名に、そのフロンティア精神を感じます。「池波正太郎さんが通い続けた洋食屋」と名高く、今でも多くのファンに愛され続けているのは、その精神で時代をとらえた努力を重ねてこられたからなのでしょう。

生き残ることが難しい街でご自身のお店を経営するだけでも大変困難であることは容易に想像がつきますが、旦那衆女将衆はさらに銀座という街全体に目を配り、連携して街を育て続けていらっしゃるそうです。

皆さん、都内の他の商業地区に比べて、銀座は空が広い、と感じたことはありませんか?それは、建物の高さ等を規制する「銀座ルール」を旦那衆女将衆が中心になって作ったことが大きな要因の一つのようです。行政、地権者さん、ビル所有者さん等多くの関係者の理解や協力を得ての地元主導の街づくり活動ですから、当然ながら一朝一夕ではいかなかったのではないでしょうか。

また、煌びやかなパレード、銀座の街中での茶会などの参加型イベントを主催され、お国もお歳も様々な層に銀座を楽しみ、親しんでもらう機会も設けています。ご自身の御商売のみならず、街全体に思いを巡らせ、力を合わせていらっしゃるのが凄いところです。

そんな粋な思いが薫るお店は大通りだけではなく、一本入った通りにも多く並びます。あづま通りの和菓子屋さん、みゆき通り角の洋服店さん、見番通りのかんざし屋さん、金春通りの呉服屋さん……。いまはお出かけしにくい時期ですが、この時間に「次に行くなら、この通り!」と狙いを定めて、ちょいとひと手間、銀座旅の計画を練ってみる、というのはいかがでしょうか。

海外から入ってきた文化をいち早く学んで取り入れるだけではなく、それを他の追随を許さないレベルまで磨き上げる徹底ぶりは大変なもの。海外にも名を知られたフレンチ、パンなどのお店が軒を連ねます。
さらには、銀座は「世界一のBarの街」と名高く、海外から人々が学びに来るほど…なのだそうです。下戸な私はまるで存じ上げず、敷居が高いような…と遠巻きにしていたのですが、知ってみると、なんとも面白く、技・職人が好きな人にはたまらない世界なのです。氷と空気と液体を操る技術、氷やフルーツカットをアートにするセンス。そして、才をひけらかすことなく、いま目の前にいるお客様の気持ちや体調等にあわせてカクテルを供する集中力とコミュニケーション力。国際バーテンダー協会主催のカクテル世界大会で世界一に輝いたバーテンダーさんが何人も銀座のBarに日々立っていらっしゃいます。そのBarで使われる美しい氷を作る技術、シェーカーを作る技術も今では日本がナンバー1と言われているそうで、シェーカーを山ほど買い込んで帰国される方もいらっしゃるとか。

華麗なる発展をみせてきた銀座ですが、もちろん順風満帆な時期ばかりではありませんでした。
明治期から商業の街へと発展した、そのきっかけは明治5年(1872年)の銀座大火。強風に煽られ、銀座、築地、丸の内の一帯が焼失しました。そこで明治政府が音頭をとり、火事に強い街をめざして道幅を広げて区画整理を行い、煉瓦敷きの歩道に耐火構造の家屋がならぶ煉瓦街として再建させたのです。その西洋風の街に商店や会社が入り、商業の街となっていったのでした。

しかし、再建むなしく大正12年(1923年)の関東大震災で、銀座の煉瓦街は倒壊し火災に飲まれます。さらに昭和20年(1945年)には空襲に見舞われました。このような災いのみならず、高度経済成長期の地価高騰、バブル崩壊やリーマン・ショックに大きく翻弄された街でもありました。
私たちが今見る銀座は、地元の方々や銀座を愛する人たちが苦難のたびに何度も何度も立ち上がり、新たな風を吹き込みながら一層成長させてきた姿なのです。

今ふたたび難局にある銀座。日々、筆舌に尽くし難いご苦労や非常に厳しい決断などがあることは想像に難くないのですが、それでも徹底した安全への取り組み、クラウドファンディングやSNSなどオンラインに場を移しての新たな挑戦の報が次々と飛び込んできます。

さあ皆さん、次に銀座へ行ったらどこへ寄りましょうか。
夏に行くならあの路地で涼をとって、冬に行くならあの老舗カフェで暖を…。
待ちきれない方はオンラインショッピングから、というのもありですね。
例えすぐには行けなくても、旅行は計画からして楽しいもの。
その楽しみを味わい尽くすところから始めましょうか…。
(柳 美里)

<参考文献・サイト>
散歩のとき何か食べたくなって』(池波正太郎、新潮社、1981年)
東京閑談 京橋・日本橋の思い出』(勝浦富太郎、評論社、1978年)
写真でひもとく街のなりたち
銀座八丁神社めぐり

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