今月の1冊
2024年11月12日
高階 秀爾著『カラー版 名画を見る眼I』『カラー版 名画を見る眼II』
岩波新書の『名画を見る眼』『続・名画を見る眼』は1969年の初版以来、50年以上ずっと読み継がれてきた、西洋美術史不朽の名作である。すごい本である。
新しい本が次々と生まれ絶版も早い時代に、版を重ね読み続けて累計82万部。昨年はついに、著者である高階主爾先生自身による加筆・監修でカラー改訂版が刊行された。すごいことである。
『名画を見る眼 I』はファン・アイク、ボッティチェリに始まり、クールベ、マネまで。『II』はモネ、ルノワールからマティス、ピカソをへてモンドリアンまで。それぞれの画家の代表的な名画ひとつを取り上げ、その作品の題材や、描かれ方、美術史を決定づけた理由を時代背景とともに解説する。
ボッティチェリ『春』を読む
I から1章選んで読んでみよう。第II章のボッティチェリの『春』。
「この名作ぐらい春の美しさと優しさを見事に表現し得た作品はほかに例がない。」と著者も絶賛する。
おそらく皆さんご存じであろう名画であるが、これまで誌面では1ページ横向きのモノクロであった。カラー版では2ページ見開きに大きくカラーとなって美しい。印刷や紙の質もよくなって細部までよくわかる。そしてこれとの対作品で同じくフィレンツェのウフィッツィ美術館にある『ヴィーナスの誕生』も今回加えられ、実に嬉しい。
『春』にはヴィーナスを中心に9人の登場人物がほぼ一列に平面的に並んで描かれる。「それぞれしかるべき位置に配置し、その役割に応じてふりをつける優れた舞台監督のよう」なボッティチェリの描き方は見事である。しかし、じっと見ているといくつも疑問がわいてくる。これは誰だろう?なにをしているのだろう?春とはなんだろう?
本書は丁寧に私たちに答えてくれる。たとえば右側の3人は、大地のニンフ、クロリスが好色な西風ゼフェロスにつかまり、花の女神フローラに生まれ変わる場面だとある。クロリスとフローラを同一人物とするのは、ローマの詩人オヴィディウスの長篇詩『行事歴』にあるエピソードからである。そして「純潔」が「愛欲」との接触によって「美」に生まれ変わる「三美神」に呼応している。
なるほど知って見入れば2人の対比に気づき、フローラの美しさもより際立ってくる。知ることで作品から新たなものが見えてくる。『行事歴』は今回の再読で興味を持った。読むたび新しい発見があり、以前は気にとめなかったことが新たな関心ごとに変わる。
このように本書にはさりげなくしかし惜しげなく、著書の知識がおりこまれている。それをこれほど読みやすくわかりやすく書かれるには、背景にどれほどの教養があることか。本著と著者のすごさを今回改めて感じた。
なにを読むか、どこから読むか—
それでは、全体を通して読んでみよう。
『名画を見る眼Ⅰ』はファン・アイクが油彩画によって成し得た見事な写実表現に始まり、近代性を描いたことによるマネの革新までの美術史である。Ⅱはその続き。モネたちは光を色に置き替え表現しようとし、ピカソは対象を解体して再構成した。シャガールは現実と夢をひとつに描こうとし、モンドリアンはかたちの要素に法則を見出そうとした。Ⅱの近代美術史は芸術家たちの試みや生き様が浮かびあがってくる。
ここで、他の美術書や鑑賞ガイドには必ずある表記が本書の目次にはないことに気づく。ルネサンス、ロマン派、写実主義といった美術史の時代区分である。
刊行は1969年。出版各社から次々と美術全集が刊行され始めた、まさに美術ブームのころである。著書の意図もあろうが、ここは本書以降の研究の進展と、広がる鑑賞者のために定着したととるのが自然だろう。時代を区切って整理すると扱いやすくわかりやすい。しかしだんだん枠やタイトルのほうが重要になってきてしまう。美術史でもそうであるから、めぐって本書がつづる美術史はとても新鮮で効果的に感じるのである。やはりすごい本である。
たとえばモネの「パラソルをさす女」。“印象派作品”とくくられるとそのフィルターがかかる。光と色を探し続けたモネがそれらをどう表現しようとしているのか、皆さんはこの作品から光と色をどう感じるか、フィルターを外してこの作品を見ていただきたい。私はそんな著者の意図も感じてならない。
皆さんももし、目次の中に知っている画家の名を見つけたなら、ぜひ、その章を読んでみてほしい。もし、美術館や展覧会で出会った絵画があったなら、本書でもういちど対面してほしい。そしてもし、本書を読んだことがあるなら、ぜひ、いまの皆さんにも再び読んでほしい。きっとどなたにも、新しく知ること、新しい関心、新しい出会い、そして新しく見えてくるものがきっと、あるだろうから。
「同じ絵を観てもそれまで見えなかったものが忽然として見えてくるようになり、眼を洗われる思いをしたことが何度もある。」
(本書あとがきより)
感謝
私には、高階先生との忘れられない時間がある。
次期講座内容の打合せでお訪ねしたときのこと。ふだんは企画案に対し次々と考えやアイデアをお話くださり、打合せの1時間が終わるころには全体の骨子ができあがる。それがこのときは違って、全体のテーマはよいが各回は違う切り口にしてみたい、とおっしゃった。
「少し考えてみましょう。」
高階先生はそうおっしゃって目を閉じ、考え始められた。そのまま、ただ静かに、ひとこともなく動きもなく、おひとり思考を続けられた。私は佇まいに見とれてしまった。
10分、15分続くといつまでこのままなのか、さすがに不安になってきた。しかし話しかければ集中を中断してしまう。20分、30分とたつと次第に慣れてきて居心地がよくなり、私なりに考えながら静かにお待ちした。
40分ほどたってふっと高階先生がお戻りになった。そして、すらすらと各回のお考えと画家の名前を挙げられる。こうしてこの回も無事に講座案はしあがった。
高階先生の思考に寄り添っている感じがした。幸せな時間だった。私の宝ものである。
著者である高階秀爾先生は2024年10月17日に逝去されました。西洋美術史研究の第一人者として日本の美術界を牽引してこられました。慶應MCCでもagoraや夕学講演会にご登壇いただきました。深く感謝いたしますとともに心よりご冥福をお祈りいたします。
(湯川 真理)
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