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今月の1冊

2008年09月09日

庄野潤三『夕べの雲』

著者:庄野潤三 ; 出版社:講談社(講談社文芸文庫) ; 発行年月:1988年4月; ISBN:9784061960152; 本体価格:1,100円 (税込 1,155 円)
書籍詳細

すいすいと読める平易な文章なのに、読む度に心に残る箇所が違う。
新井満は、その魅力をこう代弁してくれた。

『最初は退屈だな、と思い、二度目はそこはかとなく、おかしかった、そして最近では、実に実に味わい深い』。
(新井満「そこはかとなく」河出書房新社 1997年)

本書は、‘文庫の海に本物の衝撃’を謳った講談社文芸文庫の栄えある第一集として配本され、以来30刷を重ねる大ロングセラーである。
音楽や言葉との再会が引き金となり、昔の映像や感情が蘇ることはよくあるが、初めて本書の鮮やかな桜色の表紙と題名を見た時に、幼い頃の光景が浮かんできたのには驚いた。
記憶の奥の私は、山道を急ぎ足で駆け下りている。
辺りが、闇の蚕食によって墨色に沈みつつある中、ふと見上げた西の空で、金色の残照と共に真っ赤に輝く鱗雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていた。
その色彩の明と暗、茜雲の悠々さと釣瓶落としのスピードの対比は、自然の雄大さや荘厳さを伴って、私を圧倒したものだった。


四季折々の鮮やかな意匠に囲まれた日本では、比較対象が一年中存在する。
目の前の美を通して次の季節を待ちわびたり、死を見つめながら生の素晴らしさを問うといった日本人の気風は、自然との対話、対比の中で磨かれ継承されてきたのであろう。
本書全編を通じて感じられる芳しさも、庄野の死生観に基づいた対比によってもたらされている。
彼は、題名の由来に関する記述で、それを裏打ちしてくれていた。

『雲が浮かんでいるのだが、夕映えできれいな色をしている。それがちょっと目を離して、今度そちらを眺めてみると、もうさっきの色と違っている。もう別の雲になっている。あるいは、今の今まであったものが無くなっている。刻々、変るのである。(中略)いまそこに在り、いつまでも同じ状態でつづきそうに見えていたものが、次の瞬間にはこの世から無くなってしまっている具合を書いてみたい。』(297頁)

存在するそばから失われていく「生」の息吹。
だからこそ、彼は時に抗って自然や家族との「生」を、「現在」の姿として書き留めたのだ。
また、子供達が成長する姿とシンクロする形で時折挿入される庄野自身のエピソードが、もう一つの家族の情景を想起させ、連続性と普遍性を感じさせてくれる。
作品の中で、庄野はこうも書いている。

『いいことなら、その時に喜べばいい。もしそれが悪いことなら、なお更はっきりしない方がいい。どっちみち、分った時には苦痛を味わうのだから、わざわざ途中まで出迎えに行かなくてもいい。』(86頁)

これを達観と言うことなかれ。
芥川賞を受賞した「プールサイド小景」(1955年)、三島由紀夫が「平凡な現実を淡々とながめて、そこにちやんと地獄を発見している」と絶賛した「静物」(1960年)あたりの作品に漂う静謐で不気味な狂気感を潜り抜けて、初めて辿り付けた境地なのだ。
庄野の作品に一貫して流れているのは、「生」は壊れやすいものであるという考え方である。
まるで違う作家が書いたような初期の逸品も大変魅力的なので、ぜひ本書と併せて手にとっていただきたい。
『夕べの雲』は、1964年9月から1965年1月まで日経新聞の夕刊に連載されていた。
作者の分身である大浦と細君、三人の子供達(晴子・安雄・正次郎)の引越し先である、川崎市生田における日々の暮らしが、淡々と描かれていく。
1966年に本書をイタリア語に翻訳した須賀敦子はこう述べた。

『この中には、日本の、ほんとうの一断面がある。それは写真にも、映画にも表せない、日本のかおりのようなものであり、ほんとうであるがゆえに、日本だけでなく、世界中どこでも理解される普遍性をもっている、と思った。』
(須賀敦子「須賀敦子全集」第2巻 河出書房新社2006年)

また、庄野の親友である小沼丹は、

『庄野の「日常の何でもないこと」の描写に気品を与えているのは「詩心」にほかならぬ』
(小沼丹「福寿草」みすず書房 1998年)

と記している。
萩原朔太郎に激賞された詩人、伊東静雄を恩師と仰ぐ彼の文章は、写実的・叙情的な展開の中で、様々な音・色・映像、そして須賀の言う「かおり」をも再現しているのである。
庄野は、『その日、書いている回のことだけ考えて、あとのことは頭に無い。次の章に何が来るかということも考えない』(あと書きより)というスタンスで連載をこなしていった。
従って、多少の前後はあるものの、概ね晩夏から年末にかけての季節の移ろい、家族との出来事が書かれている。
1964年は東京オリンピックの年であった。
10月10日から24日まで開催されていたこの一大イベントには全く触れず、大浦一家は、「えびね蘭」の群生地を偶然発見したと大騒ぎしている。
喧騒の外側で当たり前のように営まれている普通の生活は、オリンピック後の読者を現実に引き戻させる効果があったに違いない。
彼らの家は丘の頂上にあったので、見晴らしの良さの代償として猛烈な風に晒されることになる。

『それこそ強風注意報を出しっ放しにしないといけないほど吹く。玄関の扉を開けた拍子に風にあおられて、扉がどうかなってしまうほど、反対側に叩きつけられたことがあった。そんな突風が来る。それで、関東地方にこんな強風が吹きまくっているのかと思うと、新聞にはどこを探してもそんな記事は出ていない。』(16頁)

こんな塩梅なので、四月に引っ越してきた彼らは、まず自宅の周囲に風除けの木を植えなければならなかった。
それなのに、大浦は風当りの心配のない近所の農家の佇まいを見ては、先祖からの知恵に感心したりしているのだ。のんびりしていることこの上ない。
大浦がたまたま不在の、ある夏の日には、雷の直撃も受けた。
その描写は、聞き書きにも関わらず、あたかもその場に居たかのような迫力を伴っている。

『台所の方で二、三度、続けさまに破裂するような音がしたかと思うと、台所中が鳴り出した。それは、お菓子の罐の蓋を両方の手で持って、反らせると音がする。それをもっとかん高くしたような音であった。細君はそれが調理台のステンレスがあっちこっちで鳴り出した音だということに気がついた。台所が赤くなった。それは写真をうつす時にマグネシウムを焚いたような明るさであった。』(245頁)

今夏、連日の雷雨に見まわれた私達にとっても、他人事ではない。
一方、本書は当時の市井の生活スタイルを窺える備忘録としても活用できる。
幾つか紹介しておこう。

『テレビのスイッチを入れるのは大浦か細君のどちらかということになっていて、安雄にしろ正次郎にしろ、勝手にスイッチにさわってはいけないのであった』(68頁)
『もぎ取り梨の爺さんの売っている赤梨は、九月の初めは一キロ四十円のと五十円で、梨が大きくなってからは、一キロ五十円と六十円になった。』(91頁)
『豆腐屋の主人は、週に二度くらい、この山に上って来る。』(251頁)
『この日で学校の給食はおしまいになるので、特別の献立が出る。お汁粉とゆで玉子とフルーツ・ポンチとパンのかわりにクラッカーが出る。』(271頁)

テレビは特別なものであり、豆腐は相対で買うものであった。
本書を初めて読んだ時は、子供達がとる行動にいちいち頷いては、幼い頃の思い出を付け加えながら楽しんでいた。
そして、大らかな包容力で家族を見つめる大浦の視線に、生きとしいけるもの全てに対する愛情を感じたものであった。
しかし、今回じっくりと読み直してみて、子供達の行動を父親の視点で見ている自分に気付いた。
なるほど本書は、自分の立ち位置・立場によって印象が変わるのだ。
親の視線で本書を紐解いた時、家族や自然と対峙する瞬間がどれだけ貴重なものであるかに、改めて気付かされる。
大浦が駄目を押してくる。

『日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞えて来たことを、先でどんな風に思い出すだろうか。』(87頁)

今日も、小学校三年生の正次郎が、はかなくも消えていってしまう「現在」を形に残すべく奮闘している。
韻を踏むようなリズムがなんとも心地よい。

『雨でぎんなんが落ちるの。だから、雨がふった次の朝に取ったの。運動場とぼくたちの教室の前に太いイチョウの木が二本あって、その下におっこちてるの。それが梅干みたいなの』(277頁)

(黒田恭一)

夕べの雲』(講談社文芸文庫)

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