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夕学レポート

2018年05月08日

横田南嶺「人生を照らす禅の言葉」

横田 南嶺
臨済宗円覚寺派管長
講演日時:2018年4月12日(木)

横田 南嶺

「死んだらどうなるのだろう。」4、5歳くらいの頃だろうか、そんなことを考えた時期があった。それは決まって寝る前で、眠りにつくまであれこれ考えていつの間にか眠り、起きるとそんなことはすっかり忘れて夜になるとまた考えるという事がしばらく続いた。しかし同様の問いを持たれても円覚寺の横田南嶺管長はやはり違う。2歳の頃のその問いに誠実に取り組まれていく。

「白い煙になって空に帰って行く」
「(灯籠流しで用いる)船に乗り川を流れてあの世に行く」
火葬場と新盆の川で死をそのように大人は説明したが、生憎流したその船は目の前で沈んでしまった。2歳の幼児はどうも冷めた目を持ってしまったらしく、次のような感想を得る。
「大人は当てにならない。」

自ら答えを得るべく小学生の頃から死にまつわる本を読み漁り、周囲から「変わり者」と言われながらも教会や寺社に行くようになる。そして10歳頃、禅宗の寺で『無門関』の話を聞き、禅僧の姿を見てここになら答えがあるとの直感を得たそうだ。13歳の頃から始め、1,700ほどあるという禅の問答(公案)30代半ばですべて解いてしまい、その後の20年は指導者として禅問答に携わっている。

禅は拠り所とする経典を持たない、10人いれば10人の答え方がある。だからこそ禅を語ることは自分自身を語ることに他ならないと言われる。その為だろうか、自己紹介に30分近く掛かっていた。これだけ長い自己紹介はまず御目にかかれない。悪い意味でなく禅という、一般にはあまり縁のないものを語る時には自分がなぜ関わることになったのか、どう関わっているのかを述べるのは有効な方法ではないかと思う。

「この夕学五十講の今年度初めの講座ということですが、人生の終わりに会う事の多い坊さんが(初めに)来ていいんでしょうかねえ。」そういった事を言い、場内を笑わせる。場内からの質問にも親の死をどう受け止めるべきかについての問いがあった。確かに私達の中で死と仏教は組み合わせて考えがちだ。横田管長も医学界を含む様々な所で死の受け止め方、死生観の講演をされているそうだ。生を追い求める医学界が死の受け止め方を求めている。「死とは何か」は自分自身の問い、それを追い続けてきただけなのに計らずも他の人の役に立つその不思議。相田みつをの話が紹介される。山道を歩いていると転びそうになり、近くの松の木に手をついて助かった。しかし松の木は彼を助けようと思ってそこに生えているのではない。自分の本分を全うしただけである。それが他の人の役に立った。土だって同様だ。自分の人生を全うしているだけなのに互いに助け合い、関係し合っている。

平常心(びょうじょうしん)ついての禅の言葉が紹介される。

「春に百花有り、秋に月有り、夏に涼風有り、冬に雪有り。
 若し閑事の心頭に挂くる無くんば、便ち是れ人間の好時節。
(それ以外の心に引っかかる事がないなら、それこそが人間の素晴らしい時だ。)」

春には花を、秋には月を、夏には涼風を、冬には雪を楽しむ。取捨選択をしない、作りごとをしない。これが重要だ。不条理、理不尽なことに耐える、その一事に修行はある。

「此の心を縦(ほしいまま)にすれば人の善事を喪う。之を一処に制すれば事として弁ぜずということ無し。」

死と縁が深いはずの仏教だが、いつの間にかどう生きるかについて語られている。ある種ごく自然な事なのかもしれない。死に限らず、何か一つの事を考えていくとその反対の事を考えざるを得なくなる。死について考えればそれは詰まる所、生を考えることになる。逆に生を突き詰めていけば死を考えることにもなるだろう。医学界の人たちが死生観の講演を依頼したのもこうした事によるものではないか。横田管長が最近興味を持たれているという人工知能の問題も同様で、それはすなわち人間とは何かとの問いに繋がっていく。

講演後の質問では面白いやり取りがいくつもあった。「子供の頃の自分に言う事はありますか?」との質問には「『馬鹿な事は止めなさい』と言います。」、「坐禅をしているのですが公案もした方がいいのでしょうか?」の問いには「今、幸せを感じているなら公案なんてする必要はありません。」

禅やマインドフルネスの講演をこれまで幾つか聞いてきたが、講演者はその「効能」を「世間では過大評価され過ぎている」と言及する傾向にあるようだ。これは推察するに、私達があまりに「効能」を期待し過ぎる、あるいは禅の「形・型」や「知識」に捉われて、本来果たすべき「自分の人生を全うする」ことを見失いかねない事への懸念からそのように述べるのではないかと思う。医学界での講演の話、相田みつをの話、平常心、いずれも「自分の人生を全うする」事を説いている。

何かをしたいと強く、全身を貫くような願いや問いが、あるいはそうする機会(縁)があるのならば、それをすれば良いのだ。もしそのどちらもなければ無理せずそのまま自分自身の道を歩んで行けば良い。そう言われたかったのではないか。横田管長は2歳の時に全身を貫くその問いを得てしまったのだろう。そしてその問いの答えを得るために生きてこられた。つまり「死」という問いによって「生のあり方」が決められてしまったのだ。誠に面白く不思議な事のように思われる。

「『生きることの意味』を考えるのでなくて『生きることが意味』です。人間は『生きることが意味』なのです。」

「死とは何か」を追い求めてきた人から最後に出てきたのは明るく力強い、生への讃歌であった。

(太田美行)

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