夕学レポート
2022年10月11日
藤原 辰史「生産から分解へ~土壇場の地球思想を求めて~」
分解の哲学 生産から分解へ
「消費者」たる我々は、日々ツルピカで新しくてきれいな「商品」を購入しては、やれ古くなった、壊れた、汚れたと言っていとも簡単に「ゴミ」として捨て去る。これでは畢竟、買っては捨てる→捨てては買うを繰り返すため、つまり消費するためだけに身を粉にして働き、死んでいく人生ではないのか。日本人は生まれ落ちた瞬間から消費者の顔つきをしているといわれるのは、この謂なのであろうか。
現代では食べる行為も極めて「受動的」である。パッケージされた疵のない野菜や麗しく切りそろえられた肉をスーパーで贖い、調理して食べ、水洗トイレで排泄してジ・エンド。時折は食材を冷蔵庫で放置して腐らせ、プラスチックの包装を一度も開封することなくゴミ箱へシュート。燃えるゴミの日に収集カゴへ押し込めば、なけなしの後ろめたさも消えうせる。
しかし、日本の年間食品ロス量(612万トン)が世界の食料援助量(約390万トン)を上回っていること、また国内の食料廃棄物と生産される農作物の量が同じ、という衝撃の事実を藤原辰史氏に告げられると、さすがに絶句するしかない。「この事実をノイズとして無視しようとする人がいるが、どうみても単なる失敗です」。長らく食と農の歴史を見つめてきた氏は悔しそうに語った。
消費より分解
社会が近代化していく中で、人間と自然の関係が、台所や土壌などの接点でどのように変化したのか。ほんらい複雑で多様であるはずのその関係が、化学物質・核物質による汚染や森・海・大気の汚染にみられるようにこれほど急激に単純化したのはどうしてか。さらに人間どうしの関係でも、ナチズムのような極度に単純化したものが生じてしまったのはなぜなのか――藤原氏はこれらの大きな問いから発した考察を『ナチスのキッチン』や『縁食論』といった意欲作にまとめ、上梓してきた。今回の講座は、2冊のあいだに書かれた『分解の哲学』をもとに行われた。
「分解」への問題意識は、大量生産・大量消費社会から出てくる大量の廃棄物に根差しているという。食料や衣料の大量廃棄、スクラップ&ビルドを繰り返す過剰な都市開発、さらにはいきすぎたアンチエイジングまで。ツルピカでブランニューな私と暮らしを求め続けるあまり急速に進んでしまった地球絶滅の危機。これを打開するための概念として「分解」が提示された。生産、成長一辺倒でやってきた社会が限界を迎えている今、「サーキュラーエコノミー」のように、これまで通り消費や経済から考えるエコロジーでは、もう駄目なのだという。
死のあとに続く世界
分解はもともと生態学の用語で、「あるものから属性を洗いとり、別の構成要素にかえられるようにする現象への参加」と定義される。あらまほしきイメージとして最も王道なのは、死んだ生物組織がじわじわと時間をかけて崩壊していき、その消費者(分解者とデトリタス食者)によって二酸化炭素と水、無機栄養塩にまで分解されて終わるまでの一連の動き。森の中のミクロワールドのそれである。
落葉がワラジムシ、オカダンゴムシ、ササラダニ、ミミズなどの一次分解動物によって食べられ(炭水化物、脂肪、タンパク質を消化吸収)、かれらが排泄したフン(ヘミセルロース、セルロース、リグニン)と粉砕された落葉をトビムシ、ヤスデ、ミミズ、センチュウなどの二次分解動物がさらに分解する。そしてついには、ふかふかして微生物や水分が入りやすい、いい感じに団粒化した土壌へと完成する。そんな微生物たちのめくるめくような「食べる」行為と、「生産物を食べて排泄」しているだけの我々とを全く切り離すのではなく、もっと切実に同じ連環の中で考えてみようとする態度だ。そして「分解」をもっと社会に実装させることで、食を、土壌を、自然を、地球を再生させる。
生まれながらに「チーム分解」の一員
実際、排泄物が下水処理場で微生物によって分解され川へと戻っていくことを考えれば、我々も十分「分解者」たりえているのだという。そも人間は、数千の微生物が付着した5000万の鱗片を日ごと地面へ落とし、腸内の100兆もの常在菌と共存している。人間を微生物の宿り木として捉えれば、生態系の中での位置づけもおのずと違って見えてくる。動植物と人間。自然と人間。同じ分解者どうし、その境界は意外に曖昧、なのかもしれない。
もとより原口が肛門、つまりお尻からできた後口動物の我々。誕生時は垢や体液や糞尿まみれ。荼毘にふされなければ「九相図」に描かれたように、犬や鳥や蛆虫の餌食となり最後は微生物らの力で文字通り土に還っていく、生々しく腐りやすく水っぽくベトベトしたいきもの。ふだんは忘れてすかしているが、皮膚を一枚剥がせば実は全然スマートではない。分解視点では、生死のあわいもまたマージナルに溶け合う。
破壊からしか生まれない
分解の思想は、幼稚園の創始者として知られるドイツの教育者フリードリヒ・フレーベル(1782–1852)が考案した積み木によく反映されているという。バラバラな状態から積み上げるこの玩具の「崩してからつくる」部分に、藤原氏はより分解の運動の本質を見る。壊す方が先なのだ。また、壊れない自動車が嫌いで、壊れたらそこら辺の木片をあてがって修理しながら乗るのが当然と考えるナポリ人のエピソード(1920年代のエッセイから)も披瀝された。一見、意味がわからない。だが解体して修理するからこそ機械の本質がわかる、新品は自分との関わりがなくてツマラナイ。極めてまっとうな心理だ。つまり、つくる・生まれるの始点に、破壊・分解があるという価値の転換。ドラマチックである。
ともかくも同じ分解者仲間同士、もう少し自然界と同じフィールドで交信しあうべきだしできるはず、と鼓舞する藤原氏。いっそ国民総生産ではなく、「国民総分解」を国力の指標にできればいいと画期的なアイデアも繰り出す。どのくらい豊かな土壌や海洋資源があって、どんな有機物が分解されているのか、各国の「微生物力」を問う。資源もなくイノベーションも起きず、停滞しきりの日本だが、ひとりあたりの国民総分解ならいい線いくのでは。今はまだマイナーな国菌「アスペルギルス・オリゼー」がスターに躍り出る日も夢ではない。
社会における分解のアナロジー
歴史をひもとくと、かつては人間社会の中にも明確な「分解者」が存在していた。ゴミを集め文字通り再生につなげていた屑拾いやバタヤと呼ばれる人たちである。また農村では、人糞肥料が土壌の豊饒化を助けていた。これら”分解さん”たちは、なぜ日陰の存在に甘んじていたのか。会場からの問いに、「おいしい場所だから、(権力の側は)からくりを見せないようにしたのかもしれない」「衛生面からみれば、管理して隠しておいた方がうまくいく」とみなしたのではないかと応える藤原氏。
しかし、令和の今、希望の萌芽はすでに見られる。さる建築のコンペでは、学生による「壊れる建築」「壊れてもいい建築」が優勝したというニュースがあった。音楽や絵画、陶芸、写真の世界では、分解のイメージにインスピレーションを得た作品が続々に生まれている。
藤原氏が呈示した「分解」概念がさらに実際的な社会変革にどう展開していくのか。生まれながらに分解者としての任を授けられている我々も、メンバーとしての役割を果たさなければならない。
(茅野塩子)
- 藤原 辰史(フジハラ タツシ)
- 京都大学人文科学研究所 准教授
- 1976年、北海道旭川市生まれ、島根県横田町(現奥出雲町)出身。1999年、京都大学総合人間学部卒業。2002年、京都大学人間・環境学研究科中途退学、同年、京都大学人文科学研究所助手(2002.11-2009.5)、東京大学農学生命科学研究科講師(2009.6-2013.3)を経て、現在、京都大学人文科学研究所准教授。
「食べるもの」と「食べること」から、歴史学を組み建て直すことを目指している。たとえば、19世紀末に松原岩五郎が活写した東京四ッ谷の残飯屋から、帝国日本の品種改良技術に基づく地域支配、有機農業の歴史、化学肥料の歴史、ナチ期農民の生活誌、農民芸術、農民文学、牛乳の近代日本史やフードコートなどについて、これまで取り組んできた。現在、地球上で飢えている住人は全体の7分の1であると推定されているが、以上のようなさまざまなアングルから、この現実を支える世界の仕組みの歴史的根源を探っている。 - 主な著書に『ナチス・ドイツの有機農業』(第1回日本ドイツ学会奨励賞)、『カブラの冬』、『稲の大東亜共栄圏』、『ナチスのキッチン』(第1回河合隼雄学芸賞)、『食べること考えること 』、『トラクターの世界史』、『戦争と農業』、『給食の歴史』(第10回辻静雄食文化賞)、『食べるとはどういうことか』、『分解の哲学』(第41回 サントリー学芸賞)、『縁食論』、『農の原理の史的研究』がある。2019年2月には、第15回日本学術振興会賞受賞。
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