私をつくった一冊
2022年11月08日
太田 康広(慶應義塾大学大学院経営管理研究科 ビジネス・スクール教授)
慶應MCCにご登壇いただいている先生に、影響を受けた・大切にしている一冊をお伺いします。講師プロフィールとはちょっと違った角度から先生方をご紹介します。
- 太田 康広(おおた・やすひろ)
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- 慶應義塾大学大学院経営管理研究科 ビジネス・スクール教授
- 慶應MCC担当プログラム
1.私(先生)をつくった一冊をご紹介ください
これはなかなか難しいですね。読書が仕事のような生活をしているので、これまで厖大な数の本を読んできました。そのときどきで大きな影響を受けた本は十数冊あります。中でも、私の人生に一番影響を与えたのは、大学院時代の恩師の専門書です。学部時代に一読して感激し「この著者の弟子になろう」と大学院へ進学するきっかけとなりました。ただ、内容が専門的すぎますし、出版から30年以上経ち、制度も変わっていますので、研究者でも今あの本を読み返す人はいないでしょう。
大学院進学後は、普通の人は読まないような本ばかり読み、徐々に英語になり、最終的には本ではなくて論文ばかりになっていきます。私が感動した書籍のうち、一般の人に紹介できるようなものはあまりありません。
その中で総合的に考えて1冊だけ取り上げるとしたら、ロナルド・H・コース著、『企業・市場・法』、東洋経済新報社、1992年でしょうか。2020年にちくま学芸文庫から再出版されているので、現在でも手に入りやすいと思います。コースは、数学をまったく使わない経済学者です。すべて自然言語なのでとっつきやすいはずです。
2.どのような内容ですか?
基本的には、1991年にノーベル経済学賞を受賞したロナルド・H・コースの重要論文集です。とくに影響力の大きい「企業の本質」という1937年の論文と「社会的費用の問題」という1960年の論文が中心となっています。
この「企業の本質」という論文は、「取引コストの経済学」という分野を作りだし、「社会的費用の問題」という論文は、「法と経済学」という分野を作りだしました。どちらも経済学の古典中の古典です。1人の学者が2つも分野を作りだしたということ自体が異例中の異例ですし、その影響力の届く範囲が途方もなく広く、思考も深いのも特徴的です。
「企業の本質」という論文では、企業の境界が何によって決まるのかを考察しています。資源配分メカニズムには、市場と企業とがあります。商人が市場で安く買ったものを高く売る。職人が市場で安く買ったものを加工して高く売る。そういう仕組みが市場による調整です。一方、企業の中では、給料と引き換えに上司の指揮命令系統下で働く人がいて、命令による分業によって調整が行なわれます。たとえば、ある部品を調達するとき、内製するのか外注するのかという判断は、企業で調整したほうがいいのか、市場で調整したほうがいいのかという選択問題です。これが取引コストによって決まってきます。
このコースの論文から始まった「取引コストの経済学」は、アップルやキーエンスなど、いわゆるファブレス企業の分析にも有効です。また、オープン・イノベーションや他社とのアライアンスを考えるときのヒントにもなりましょう。現代の企業人にとっても役に立つフレームワークです。
「社会的費用」の論文では、取引コストがゼロならば、公害などの社会問題は自動的に解決されることを示しています。この事実は、別の学者によって数理的に証明されて「コースの定理」と呼ばれています。
しかし、これは、ある意味で皮肉です。コースの主張は、現実には取引コストはゼロではないから、誰の責任で公害などを排除するかによって、効率性が変わってくるというものだったからです。コースの関心は、コースの定理が成り立たない状況にありました。つまり、取引コストのある世界では、法律や制度というものが経済的に意味を持ってくるということです。この考え方が「法と経済学」という分野を作りました。
「法と経済学」は現代において大きな意味を持っています。たとえばキャッシュカードの情報が不正に読み取られて預金が引き出されるという被害にあったとしましょう。これを預金者の責任にしても預金者としては対策の講じようがありません。預金者が安全対策をする取引コストは高いのです。しかし、銀行の責任にすれば、より安全なキャッシュカードを採用するでしょう。つまり、キャッシュカードの不正利用の責任は銀行に負わせたほうがよいのです。
3.その本には、いつ、どのように出会いましたか?
私は、学部時代は経済学を専攻していて、大学院から会計専攻へ切り替えました。現実の企業経営に関連したテーマを厳密に研究したい私にとって、バランスがよさそうな専攻が会計だったのです。
学部時代の私には、学部レベルの経済学は、非常に単純化された数理モデルで、ごく当たり前のことを証明しているように見えました。もっと現実の経済やビジネスに関連した勉強がしたいと強く思っていました。
そこで、商学部の講義やゼミを聴講したり、経営学の書籍を読み漁ったりしていましたが、今度は経営学のいい加減さが気になってしまう(笑)。ビジネスの成功事例を引き合いに出して、それにテキトーな理屈をつけるだけなら誰でも何とでもいえます。この経営学のいい加減さ加減にはかなり失望しました。
そんなときに「法と経済学」の存在を知り、かなり興味を持ちました。経済やビジネスに関連した現実の問題を厳密なロジックで解き明かしていくのに感激したわけです。ただ、当時、「法と経済学」の日本語文献はほとんどなく、英語で読まないといけないのが学部生にとっては辛いところでした。
その頃、ロナルド・H・コースがノーベル経済学賞を受賞しました。そして、コースのノーベル賞受賞の効果として、「法と経済学」の重要文献が続々と日本語に訳されるようになったのです。『企業・市場・法』も受賞1年後に翻訳が出たのですぐに買って読みました。
4.それは先生にとってどんな出会いでしたか?
学者になるにあたって、厳密ですが現実のビジネスから遠い経済学と、現実のビジネスに近いけれど厳密性に欠ける経営学のあいだで迷っていたのですが、この本は、現実のビジネスに近いトピックを厳密に取り扱う道があるということを教えてくれました。研究生活の早い段階で、この本を読んだことで、ディスクロージャー、コーポレート・ガバナンス、監査、内部統制といった、企業のビジネス周りの制度や慣習を、ゲーム理論や契約理論といった厳密な手法で研究するようになりました。
5.この本をおすすめするとしたら?
コースは数学をまったく使わないとはいえ、その思考は深い。やはり元が学術論文なので、気軽に読み流せるようなものではありません。
ただ、コースの議論は現実の企業活動、ビジネスに深く関わっているので、しっかりと身につければ、現実のビジネスに応用が利くように思います。
もちろん、明日からすぐに営業成績が上がるとか、すぐに出世できるといったご利益はありませんが、現代のビジネスを取り巻く環境を深く洞察し、次の変化を考えるにあたって、状況を整理して理解するための有用なフレームワークを提供してくれましょう。
この手の難しい本は、若いうちに読んだほうがいいと思いますが、ある程度の実務経験があったほうが肚落ちするかもしれません。20代後半から30代前半の社会人に勧めます。
- 太田 康広(おおた・やすひろ)
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- 慶應義塾大学大学院経営管理研究科 ビジネス・スクール教授
- 慶應MCC担当プログラム
- 1992年慶應義塾大学経済学部卒業、1994年東京大学より修士(経済学)取得、1997年東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学、同年同研究科特別研究員、2002年ニューヨーク州立大学バッファロー校スクール・オブ・マ ネジメント博士課程修了、2003年ニューヨーク州立大学より経営学博士号 (Ph.D.)取得。2002年ヨーク大学(カナダ)ジョセフ・E・アトキンソン教養・専門研究学部管理研究学科専任講師、2003年同学科助教授(会計分野コーディネーター)、2005年慶應義塾大学大学院経営管理研究科 ビジネス・スクール助教授、2011年より現職。
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